・・・ような、くすぐったい、尻餅をついてみたい程の驚きを感じたのです。 それから二日間、あの宿で、あなたと共に起居して、私は驚嘆の連続でした。なんという達者なじいさんだろうと、舌を巻いた。けれども私は、一度も不愉快を感じませんでした。とても豊・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・だしぬけに私の視覚が地べたの無限の前方へのひろがりを感じ捕り、私の両足の裏の触覚が地べたの無限の深さを感じ捕り、さっと全身が凍りついて、尻餅ついた。私は火がついたように泣き喚いた。我慢できぬ空腹感。 これらはすべて嘘である。私はただ、雨・・・ 太宰治 「玩具」
・・・ 私は、もちろん驚いた。尻餅をつかんばかりに、驚いた。人喰い川を、真白い全裸の少年が泳いでいる。いや、押し流されている。頭を水面に、すっと高く出し、にこにこ笑いながら、わあ寒い、寒いなあ、と言い私のほうを振り向き振り向き、みるみる下流に・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・三木は、尻餅つきながらも、力一ぱい助七の下腹部を蹴上げた。「うっ。」助七は、下腹をおさえた。 三木はよろよろ立ちあがって、こんどは真正面から、助七の眉間をめがけ、ずどんと自分の頭をぶっつけてやった。大勢は、決した。助七は雪の上に、ほ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・立ちあがって、尻餅ついた。サラリイマンは、また現われて、諦念と怠惰のよさを説く。姉は、母の心配を思え、と愚劣きわまる手紙を寄こす。そろそろと私の狂乱がはじまる。なんでもよい、人のやるなと言うことを計算なく行う。きりきり舞って舞って舞い狂って・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・幸いこんにゃく桶は水がこぼれただけだったが、私の尻餅ついたところや、桶のぶっつかったところは、ちょうど紫色の花をつけたばかりの茄子が、倒れたり千切れたりしているのであった。「なにさ、おやおや――」 玄関の格子戸がけたたましくあいて、・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・滅多に下りると滑って尻餅を搗く。険呑だと八合目あたりから下を見て覘をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬほどに坂を蔽うているから、昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持では・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・(へたへたと尻餅命の空気が脱け出てしまうような。どうぞ帰ってくれい。誰がお前を呼んだのか。帰れ帰れ。誰がお前をこの内に入れたのか。死。立て。その親譲りの恐怖心を棄ててしまえ。わしは何もそう気味の悪い者ではない。わしは骸骨では無い。男神ジ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・寸の間小寂しい畑道で、漸くそこの竹籔の向うに、家の灯がかすかに光るのを見られる所まで来て、何となし少しせいた足取りで六七歩行くと、下駄の歯先に何か踏み返してあっと云う間もなく、ズシーン、いやと云うほど尻餅をついてしまった。 只ころんだだ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫