・・・固より船中の事で血を吐き出す器もないから出るだけの血は尽く呑み込んでしまわねばならぬ。これもいやな思いの一つであった。夜が明けても船の中は甚だ静かで人の気は一般に沈んで居る。時々アーアーという歎声を漏らす人もある。一週間の碇泊とは随分長い感・・・ 正岡子規 「病」
・・・一度梟身を尽して、又新に梟身を得、審に諸の患難を被りて、又尽くることなし。 で前の晩は、諸鳥歓喜充満せりまで、文の如くに講じたが、此の席はその次じゃ。則ち説いて曰くと、これは疾翔大力さまが、爾迦夷上人のご懇請によって、直ちに説法をなされ・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・今日、彼等の社会を風靡していると云われる物質主義、精力主義、並に実利主義は、未開の而も生産力の尽くるところを知らない自然に向って、祖先が、本能的に刺戟された一方面の発育であると云えるのではありませんでしょうか。 源泉は遠い遠い彼方迄遡る・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽く彼らの過去に殺戮した血色のために気が狂っていた。 ナポレオンは河岸の丘の上からそれらの軍兵を眺めていた。騎兵と歩兵と砲兵と、服色燦爛たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ そう思うと、彼は今一段自分の狡猾さを増して、自分から明らかに堂々と以後一家で負う可き一切の煩雑さを、秋三に尽く背負わして了ったならば、その鮮かな謀叛の手腕が、いかに辛辣に秋三の胸を突き刺すであろうと思われた。 彼は初めて秋三に復讐し終・・・ 横光利一 「南北」
・・・そうして、腹掛けの饅頭を、今や尽く胃の腑の中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤に栄えた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現・・・ 横光利一 「蠅」
・・・あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦り切れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・見ていると、大空から急降下爆撃で垂直に下って来た新飛行機は、栖方の眼前で、空中分解をし、ずぼりと海中へ突き込んだそのまま、尽く死んでしまった。 また別の話で、ラバァウルへ行く飛行中、操縦席からサンドウィッチを差し出してくれたときのこと、・・・ 横光利一 「微笑」
・・・それは相戦う力が完全な権衡に達した時の崇高な静寂である。尽くることなき力を人の心に暗示する深い沈黙である。そうして、この簡素な太い力の間を縫う細やかな曲線と色との豊富微妙な伴奏は、荘厳に圧せられた人の心に優しいしめやかな手を触れる。――・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
・・・彼らは私の眼に、世界と人間とが尽くることなき享楽の対象であることの、具体的な証左であった。そのころの私には Sollen の重荷に苦しむ人が笑うべく怯懦に見えた。享楽に飽満しない人が恐ろしく貧弱に見えた。IやJやKが真に愛着に価する人間に見・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫