・・・が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。 渋谷の金王桜の評判が、洗湯の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打の大事を打ち・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・不束ながらそれだけの道は尽くしたつもりでございますが、それを信じていただけなければお話には継ぎ穂の出ようがありませんです。……じゃ早田君、君のことは十分申し上げておいたから、これからこちらの人になって一つ堅固にやってあげてくださいまし。……・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ この浪路が、気をつかい、心を尽した事は言うまでもなかろう。 阿媽、これを知ってるか。 たちまち、口紅のこぼれたように、小さな紅茸を、私が見つけて、それさえ嬉しくって取ろうとするのを、遮って留めながら、浪路が松の根に気も萎えた、・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・侠気と同情に富める某氏は全力を尽して奔走してくれた。家族はことごとく自分の二階へ引取ってくれ、牛は回向院の庭に置くことを諾された。天候情なくこの日また雨となった。舟で高架鉄道の土堤へ漕ぎつけ、高架線の橋上を両国に出ようというのである。われに・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・というと、洒落気と茶番気タップリの椿岳は忽ち乗気となって、好きな事仕尽して後のお堂守も面白かろうと、それから以来椿岳は淡島堂のお堂守となった。 淡島堂というは一体何を祀ったもの乎祭神は不明である。彦少名命を祀るともいうし、神功皇后と応神・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・が、そういう者は例外として、真に子供の為めに尽した母に対してはその子供は永久にその愛を忘れる事が出来ない。そして、子供は生長して社会に立つようになっても、母から云い含められた教訓を思えば、如何なる場合にも悪事を為し得ないのは事実である。何時・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・引き取って、「一体その娘の死んだ親父というのが恐ろしい道楽者で自分一代にかなりの身上を奇麗に飲み潰してしまって、後には借金こそなかったが、随分みじめな中をお母と二人きりで、少さい時からなかなか苦労をし尽して来たんだからね。並みの懐子とは違っ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ と、呶鳴るように言っていたくらい、随分尽してやったものだ。印刷は無論ただ同然で引き受けてやったし、記事もおれが昔取った杵柄で書いてやった。なお「蘆のめばえ咲分娘」と題して、船場娘の美人投票を募集するなど、変なことを考えついたのも、おれ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ ある晩酒を飲みながら老父は耕吉に向って、「俺はこうしてまあできるだけお前には尽しているつもりだが、よその親たちのことを考えてみろ、そんなもんではないぜ。これがもし世間に知れてみなさい、俺のことをいい親ばかだと言うに極まっている。…・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言うものが残っている。若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くな・・・ 梶井久 「臨終まで」
出典:青空文庫