・・・従って、彼の放埓のすべてを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。 こう考えている内蔵助が、その所謂佯狂苦肉の計を褒められて、苦い顔をしたのに不思議はない。彼は、再度の打撃をうけて僅に残っていた胸間の春・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・この時の俺の心もちは恐怖と言うか、驚愕と言うか、とうてい筆舌に尽すことは出来ない。俺は徒らに一足でも前へ出ようと努力しながら、しかも恐しい不可抗力のもとにやはり後へ下って行った。そのうちに馭者の「スオオ」と言ったのはまだしも俺のためには幸福・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、ソクラテスとプレトオをも教師だったなどと云うのは、――保吉は爾来スタアレット氏に慇懃なる友情を尽すことにした。 午休み ――或空想―― 保吉は二階の食堂を出た。文官教官は午飯の後はたいてい隣の喫煙室・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・踏みとどまる以上は、極力その階級を擁護するために力を尽くすか、またはそうはしないかというそれである。私は後者を選ばねばならないものだ。なぜというなら、私は自分が属するところの階級の可能性を信ずることができないからである。私は自己の階級に対し・・・ 有島武郎 「想片」
・・・私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。私の一生が如何に失敗であろうとも、又私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならな・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・情のために道を迂回し、あるいは疾走し、緩歩し、立停するは、職務に尽くすべき責任に対して、渠が屑しとせざりしところなり。 六 老人はなお女の耳を捉えて放たず、負われ懸くるがごとくにして歩行きながら、「お香、こう・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・然るに文学上の労力がイツマデも過去に於ける同様の事情でイクラ骨を折っても米塩を齎らす事が無かったなら、『我は米塩の為め書かず』という覚悟が無意味となって、或は一生涯文学に志ざしながら到頭文学の為め尽す事が出来ずに終るかも知れぬ。 過去に・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
私は母の愛というものに就いて考える。カーライルの、母の愛ほど尊いものはないと云っているが、私も母の愛ほど尊いものはないと思う。子供の為めには自分の凡てを犠牲にして尽すという愛の一面に、自分の子供を真直に、正直に、善良に育てゝ行くという・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・尤も許しさえしたら、何も角も抛て置いてさっさと帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは能く尽す。 颯と朝風が吹通ると、山査子がざわ立って、寝惚た鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのと白みかかって、やわらかい羽毛を散ら・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・感情も意志も知力もその能を尽くすべき時である。冬はいじけ春はだらけ夏はやせる人でも、この季節ばかりは健康と精力とを自覚するだろう。それで季節が季節だけに自分のウォーズウォルス詩集に対する心持ちがやや変わって来た、少しはしんみりと詩の旨を味わ・・・ 国木田独歩 「小春」
出典:青空文庫