・・・尾崎は重なる逐客の一人として、伯爵後藤の馬車を駆りて先輩知友に暇乞いしに廻ったが、尾行の警吏が俥を飛ばして追尾し来るを尻目に掛けつつ「我は既に大臣となれり」と傲語したのは最も痛快なる幕切れとして当時の青年に歓呼された。尾崎はその時学堂を愕堂・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・「私を尾行しているのんですわ。いつもああなんです。なにしろ、嫉妬深い男ですよって」 女はにこりともせずにそう言うと、ぎろりと眇眼をあげて穴のあくほど私を見凝めた。 私は女より一足先に宿に帰り、湯殿へ行った。すると、いつの間に帰っ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気のために自嘲していた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られて、本来の面目を取り戻した。ここでおどおどしては俺もお終いだと思うと、眼の前がカッと血色に燃えて、「用って何もありません。ただ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ そういった途端、うしろからボソボソ尾行て来た健坊がいきなり駈けだして、安子の傍を見向きもせずに通り抜け、物凄い勢いで去って行った。兵児帯が解けていた。安子はそのうしろ姿を見送りながら、「いやな奴」と左の肩をゆり上げた。 ところ・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・僕の友人は、労働歌を歌っていて、ただ、それだけで一年間尾行につき纒われた。 ちょっと、郷里の家へ帰っているともう、スパイが、嗅ぎつけて、家のそばに張りこんでいる。出て歩けば尾行がついて来る。それが結婚のことで帰っていてもそうなのである。・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・誰かに尾行されているような気もするから、君、ちょっと、家のまわりを探ってみて来てくれないか。」と声をひそめて言う。勝治は緊張して、そっと庭のほうから外へ出て家のぐるりを見廻り、「異状ないようです。」と小声で報告する。「そうか、ありがとう。も・・・ 太宰治 「花火」
・・・た、その急廻転のために思いがけなき功名を博し得たと云う御話しは、明日の前講になかという価値もないから、すぐ話してしまう、この時まで気がつかなかったがこの急劇なる方向転換の刹那に余と同じ方角へ向けて余に尾行して来た一人のサイクリストがあった、・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・寺僧が怪んで人に尾行させると、老人は山城河岸摂津国屋の暖簾の中に入った。 二 竜池は家を継いでから酒店を閉じて、二三の諸侯の用達を専業とした。これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中将家、桜田堀通の上杉侍従家・・・ 森鴎外 「細木香以」
出典:青空文庫