・・・の一番初めの話は、高い屋根裏の部屋で朝から晩までモール刺繍をして暮している娘の窓に月が毎晩訪れて、お話をして聴かせるという話だったと思う。都会の屋根うらのそういうふうな娘の人生を、アンデルセンは悲しい同情をもって理解した。 またこんどの・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・十余年の昔、夫ピエールと二人で物理学校の中庭にある崩れかけた倉庫住居の四年間、ラジウムを取出すために瀝青ウラン鉱の山と取組合って屈しなかった彼女の不撓さ、さらに溯ってピエールに会う前後、パリの屋根裏部屋で火の気もなしに勉強していた女学生の熱・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・やっと自分が巴里へ行ける番になって、ソルボンヌ大学の理科の貧しい学生となってからのマリヤが、エレヴェータアなどありっこない七階のてっぺんのひどい屋根裏部屋で、時には疲労と空腹とから卒倒するような経験をしながら、物理学と数学との学士号をとる迄・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人の命の焔」
・・・一ルイでセザンヌの林檎ならばこそ三つ買って、ホクホクして帰る小さいパリーの勤人、屋根裏の住人の心持を考えると、セザンヌが何を力にあの困難も堪えたかということもわかるような暖かさがあります。はでなサロン向の画商との所謂大家的取引とは何と違うで・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・巴里へ出てからは十九歳の裁縫女として十二時間労働をし、そのひどい生活からやがて眼を悪くして後、彼女は自家で生計のための仕立ものをしながらその屋根裏の小部屋の抽斗の中にかくして、「ただ自分一人のために」小説をかきだした。それが「孤児マリイ」で・・・ 宮本百合子 「知性の開眼」
・・・ あの時分――女学校の四五年の頃を追想すると、斯うやって夏の田舎の屋根裏の小部屋で机に向っていても、種々な情景が如実に浮み上り、微笑を禁じ得ない心持になる。 私が一番初め千葉先生を教壇に見たのは、四年の西洋歴史の時からであった。・・・ 宮本百合子 「弟子の心」
・・・ 一九一八年十二月五日〔東京市本郷区林町二一 中條葭江宛 マウント・ヴァーノンより〕 ワシントン夫人の死んだ部屋でございます。屋根裏の小さい、狭い、彼れほどの人の夫人の死場所として、外見はあまりに貧弱でございますが、その只一・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
・・・恐らくその無数の腐りかかった肺臓は、低い街々の陽のあたらぬ屋根裏や塵埃溜や、それともまたは、歯車の噛み合う機械や飲食店の積み重なった器物の中へ、胞子を無数に撒きながら、この丘の花園の中へ寄り集って来たものに相違ない。しかし、これらの憐れにも・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ 暫くして吉は、その丸太を三、四寸も厚味のある幅広い長方形のものにしてから、それと一緒に鉛筆と剃刀とを持って屋根裏へ昇っていった。 次の日もまたその次の日も、そしてそれからずっと吉は毎日同じことをした。 ひと月もたつと四月が来て・・・ 横光利一 「笑われた子」
・・・吾人の渇仰する天才力ーライルは三階の屋根裏からはるかに樽の中の蛇を眺めながら星とともに超越していた。しかも彼には星とともに下界を輝らす信念がある。「身に近き義務と信ぜらるるものをまずなし果たせ。第二義務は直ちに明らかならん。霊的解脱はここに・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫