・・・別に悪いところにいるというのじゃないし、女を買うわけでもないんですもの。山中なんかへ行ってるよりか、よほど安心なもんや」「それにもうしばらく兄の容態も見たいと思っているんだ。今日いいかと思うと、明朝はまた変わるといったふうだから、東京へ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・私は空に浮んだ雲を見ながら、この地方の山中に伝説している、古い口碑のことを考えていた。概して文化の程度が低く、原始民族のタブーと迷信に包まれているこの地方には、実際色々な伝説や口碑があり、今でもなお多数の人々は、真面目に信じているのである、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ なぜかなら、その村は、殿様が追い詰められた時に、逃げ込んで無理にこしらえた山中の一村であったから、なんにも産業というものがなかった。 で、中学の存在によって繁栄を引き止めようとしたが、困ったことには中学がその地方十里以内の地域に一・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ そのような女役者が夜になると山中鹿之助を演じた。「いらっしゃーい! お二人さんお二階」 チョンチョンと下足札を鳴らすが、小屋は満員で、騒然としていて、顔役は、まがい猟虎の襟付外套で股火をし、南京豆の殼が処嫌わず散らかっているだ・・・ 宮本百合子 「山峡新春」
・・・ 三里ほど山中の、至って交通の不便な部落から、切石、鉱石、蒔炭の類を産するので、町への搬出を手軽く出来るように、町からそっちへ売りこむ日用品をも楽に供給するために、出来たことなのである。 ずいぶん粗末な小屋掛け同様の建物が出来、むこ・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・この人々の中にはそれぞれの家の菩提所に葬られたのもあるが、また高麗門外の山中にある霊屋のそばに葬られたのもある。 切米取りの殉死者はわりに多人数であったが、中にも津崎五助の事蹟は、きわだって面白いから別に書くことにする。 五助は二人・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 石川が大番頭になった年の翌年の春、伊織の叔母婿で、やはり大番を勤めている山中藤右衛門と云うのが、丁度三十歳になる伊織に妻を世話をした。それは山中の妻の親戚に、戸田淡路守氏之の家来有竹某と云うものがあって、その有竹のよめの姉を世話したの・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・ある日、梶は東北の疎開先にいる妻と山中の村で新聞を読んでいるとき、技術院総裁談として、わが国にも新武器として殺人光線が完成されようとしていたこと、その威力は三千メートルにまで達することが出来たが、発明者の一青年は敗戦の報を聞くと同時に、口惜・・・ 横光利一 「微笑」
・・・初めて私がランプを見たのは、六つの時、雪の降る夜、紫色の縮緬のお高祖頭巾を冠った母につれられて、東京から伊賀の山中の柘植という田舎町へ帰ったときであった。そこは伯母の家で、竹筒を立てた先端に、ニッケル製の油壺を置いたランプが数台部屋の隅に並・・・ 横光利一 「洋灯」
・・・その直前にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。王子は四歳まで育って、・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫