・・・禽も啼かざる山間の物静かなるが中なれば、その声谿に応え雲に響きて岩にも侵み入らんばかりなりしが、この音の知らせにそれと心得てなるべし、筒袖の単衣着て藁草履穿きたる農民の婦とおぼしきが、鎌を手にせしまま那処よりか知らず我らが前に現れ出でければ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・その山間の小駅から、くねくね曲った山路を馬車にゆられて、約二十分、谷間の温泉場に到着した。「いいか。当分は、ここにいろ。おれは、もう何も言わぬ。うちの奴らには、おれから、いいように言って置く。おまえも、もう、来年は、はたちだ。ここでゆっ・・・ 太宰治 「火の鳥」
どこかへ旅行がしてみたくなる。しかし別にどこというきまったあてがない。そういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、あるいは海浜、あるいは山間の湖水、あるいは温泉といったように、行くべき所がさまざま有りすぎるほどある。そこでま・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・朝夕に讃美歌の合唱が聞こえて、それがこうした山間の静寂な天地で聞くと一層美しく清らかなものに聞こえた。みんな若い人達で婦人も若干交じっていた。昔自分達が若かった頃のクリスチャンのように妙に聖者らしい気取りが見えなくて感じのいい人達のようであ・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・またスイスの山間の中学校の先生が粗末な験電器の漏電を測っていたことが、少なくも間接には近代電子的物質観への導火線となり、放射性物質の発見にも一つの衝動を与えたような形になった。現在先端的な問題の一つと考えらるる宇宙線の研究でも、実はこの昔の・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・となった山間のK部落の自作農らが、更に戦争の軍事費負担を加重される。軍部がその部落に二百円の強制献金を割り当てた。自作農らはついに共同墓地の松の木を伐ってそれを出すことに決議したが、昭和二年の鉱山閉鎖以来共同植付苅入れをしている「やま連」と・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・ましてや現在、それぞれの大都会で、或は山間の企業のある場所で生活とたたかっている人々の多くは、すでに故郷を捨てて祖先の墓のある土地から根をきられて、そこへ動いている。 故郷のない人々の文学が、故郷というものについての新しい文学的要素をか・・・ 宮本百合子 「故郷の話」
・・・がいたわしさに包もうとは力めたれど……何を匿そう、姫御前は帷子を着けなされたまま、手に薙刀を持ちなされたまま……母御前かならず強く歎きなされな……獣に追われて殺されつろう、脛のあたりを噛み切られて北の山間に斃れておじゃッた」 母は眼を見・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫