・・・――処へ、土地ところには聞馴れぬ、すずしい澄んだ女子の声が、男に交って、崖上の岨道から、巌角を、踏んず、縋りつ、桂井とかいてあるでしゅ、印半纏。」「おお、そか、この町の旅籠じゃよ。」「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷の年増と、その・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・この村の何某、秋の末つ方、夕暮の事なるが、落葉を拾いに裏山に上り、岨道を俯向いて掻込みいると、フト目の前に太く大なる脚、向脛のあたりスクスクと毛の生えたるが、ぬいとあり。我にもあらず崖を一なだれにころげ落ちて、我家の背戸に倒れ込む。そこにて・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・それより右に打ち開けたるところを望みつつ、左の山の腰を繞りて岨道を上り行くに、形おかしき鼠色の巌の峙てるあり。おもしろきさまの巌よと心留まりて、ふりかえり見れば、すぐその傍の山の根に、格子しつらい鎖さし固め、猥に人の入るを許さずと記したるあ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・一日の仕事から帰って来て、小屋から立ちのぼる青い煙を岨道から見上げるのは愉快であった。こんな小屋でも宅へ帰ったような心持ちになる。夜になると天井の丸太からつるしたランプの光に集まる虫を追いながら、必要な計算や製図をしたり、時には・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・また山を越えると、踏まえた石が一つ揺げば、千尋の谷底に落ちるような、あぶない岨道もある。西国へ往くまでには、どれほどの難所があるか知れない。それとは違って、船路は安全なものである。たしかな船頭にさえ頼めば、いながらにして百里でも千里でも行か・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫