・・・ 左れど天命の寿命を全くして、疾病もなく、負傷もせず、老衰の極、油尽きて火の滅する如く、自然に死に帰すということは、其実甚だ困難のことである、何となれば之が為めには、総ての疾病を防ぎ総ての禍災を避くべき完全の注意と方法と設備とを要するか・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・まだ章坊も貰わない、ずっと先の事であったし、小母さんは大変に藤さんを可愛がって、後には夜も家へ帰すよりか自分の側へ泊らせる方が多いくらいにしていた。はじめそこへ移ってきた翌る日であったか、藤さんがふと境の扇骨木垣の上から顔を出して、「小・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・僕が帰ることになったとき、先に払った同人費を還すからというとき、僕は心の中で、五円儲かった、と叫んだのです。そして、何か云われたのに、二円五十銭ずつ二回に払ったのですが、と答えたときの自分自身の見えすいた狡さのために、自らをひくくしたはずか・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・わかい私には、そのような一夜を明して、女をひとりすげなく帰すのは、許しがたい無礼であると考えられたのである。夜明けのまちには、人ひとり通らなかった。私たちは、未来のさまざまな幸福を語り合って、胸をおどらせた。私たちは、いつまでもそうして歩い・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・ 予報者と被予報者との意志の疎通せざる手近き原因は、予報の指定する範囲と被予報者の利害範囲の大きさの相違と、その公算的不整合を許容する程度の差異に帰すべしと思わる。 最後に卑近なる例を挙げて所説を補わん。木の葉をつたい歩く蟻にとりて・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・しかしそれらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰すべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・これで行く度に阿母さんが出て来て、色々打ち釈けた話をしちゃ、御馳走をして帰す。酒のお酌や飯の給仕に出るのがその綾子さんで、どうも様子が可怪しいと思ってるてえと、やがてのこと阿母さんの口から縁談の話が出た。けど秋山少尉は考えておきますと、然い・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・すなわちこれを書し、もってこれを還す。 明治二十年一月中旬高知 中江篤介 撰 中江兆民 「将来の日本」
・・・黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑の霧を含みて、芙蓉に滴たる音を聴くとき、対える人の身の上に危うき事あり。けきぜんと故・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・万法一に帰す、一いずれの所にか帰すというような禅学の公案工夫に似たものを指定しなければならんようになります。ショペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわしております。まことに重宝な文句であります。私もちょっと拝借しよ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫