ガラーリ 格子の開く音がした。茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・然しそれでも帰るときには何べんも何べんもお辞儀した。――お安は長い間その人から色々と話をきいていた。 母親はワザ/\東京まで出てきて、到々自分の息子に会わずに帰って行った。「お安や、健はどうしてた……?」 汽車の中で、母親は恐ろ・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・実は私は次郎の将来を考えたあげく、太郎に勧めたとは別の意味で郷里に帰ることを次郎にも勧めたいと思いついたからで。長いこと養って来た小鳥の巣から順に一羽ずつ放してやってもいいような、そういう日がすでに来ているようにも思えた。しかし私も、それを・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・影のごとき漁船が後先になって続々帰る。近い干潟の仄白い砂の上に、黒豆を零したようなのは、烏の群が下りているのであろうか。女の人の教える方を見れば、青松葉をしたたか背負った頬冠りの男が、とことこと畦道を通る。間もなくこちらを背にして、道につい・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・往く時も帰る時も、なりたけお前さんの傍に引っ付いているようにしたのだわ。なんでもお前さんを敵にすると大変だと思ったので、わたし友達になったのよ。でもどうも仲がしっくり行かなかったのね。お前さんが内へ来ると、あの人がなんだか困ったような様子を・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰るまい、と御坂の木枯つよい日に、勝手にひとりで約束した。 ばかな約束をしたものである。九月、十月、十一月、御坂の寒気堪えがたくなった。あのころは、心細い夜がつづいた。どうしよう・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・それでも竜騎兵中尉は折々文士のいる卓に来て、余り気も附けずに話を聞いて、微笑して、コニャックをもう一杯呑んで帰ることがある。 これが銀行員チルナウエルの大事件に出逢う因縁になったのである。チルナウエルはいつか文士卓の隅に据わることを許さ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・自分はとても生きて還ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝いた。この病、この脚気、たといこの病は治ったにしても戦場は大なる牢獄である。いかにもがいても焦ってもこの大なる牢獄から脱することはできぬ。得利寺で戦死した兵士がその以前かれに向・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ホテルへ乗って帰る車の中に物を置けば、それが翌日は帰って来るということが分からないのではない。とにかく今夜一晩だけでもあの包みなしに安眠したいと思ったのである。明朝になったなら、またどうにかしようというのであった。しかしそれは画餅になった。・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・宅へ帰ると世界中の学者や素人から色々の質問や註文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫