・・・負けぬ気の椿岳は業を煮やして、桜痴が弾くなら俺だって弾けると、誰の前でも怯めず臆せずベロンベロンと掻鳴らし、勝手な節をつけては盛んに平家を唸ったものだ。意気込の凄まじいのと態度の物々しいのとに呑まれて、聴かされたものは大抵巧いもんだと出鱈目・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・二相はあたかも福原の栄華に驕る平家の如くに咀われた。 伊井公侯を補佐して革命的に日本の文明を改造しようとしたは当時の内閣の智嚢といわれた文相森有礼であった。森は早くから外国に留学した薩人で、長の青木周蔵と列んで渾身に外国文化の浸潤った明・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・不平家なんだわ、きっと。不良少年かも知れない。いまに私が花咲けば、さだめし、いやらしい事を言って来るに相違ない。用心しましょう。あれ、私のお尻をくすぐっているのは誰? 隣りのチビだわ。本当に、本当に、チビの癖に、根だけは一人前に張っているの・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・そこへ大正十二年の大震災が襲って来て教室の建物は大破し、崩壊は免れたが今後の地震には危険だという状態になったので、自分の病気が全快して出勤するようになったときは、もう元の部屋にははいらず、別棟の木造平屋建の他教室の一室に仮り住いをすることに・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・ クラブの建物はいつか覗いてみた朝霞村のなどに比べるとかなり謙遜な木造平家で、どこかの田舎の学校の運動場にでもありそうなインテリ気分のものである。休憩室の土間の壁面にメンバーの名札がずらりと並んでいる。ハンディキャップの数で等級別に並べ・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・ 山の手の、地盤の固いこのへんの平家でこれくらいだから、神田へんの地盤の弱い所では壁がこぼれるくらいの所はあったかもしれないというような事を話しながら寝てしまった。 翌朝の新聞で見ると実際下町ではひさしの瓦が落ちた家もあったくらいで・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
・・・ 日本の家屋が木造を主として発達した第一の理由はもちろん至るところに繁茂した良材の得やすいためであろう、そうして頻繁な地震や台風の襲来に耐えるために平家造りか、せいぜい二階建てが限度となったものであろう。五重の塔のごときは特例であるが、・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・狭い道は薄暗く、平家建の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし燈火は行くに従つて次第に多く、家もまた二階建となり、表付だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった。 わたくしはふと大・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横に通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保長屋、また湯灌場大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬の背新道と呼んでいた。道の中央が高・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
出典:青空文庫