・・・ 単純な、平穏な死である。踊ることをも忘れて、ついと行ってしまうのである。「おやまあ」と貴夫人が云った。 それでも褐色を帯びた、ブロンドな髪の、残酷な小娘の顔には深い美と未来の霊とがある。 慈悲深い貴夫人の顔は、それとは違っ・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・ 伊助の浄瑠璃はお光が去ってからきゅうに上達し、寺田屋の二階座敷が素義会の会場につかわれるなど、寺田屋には無事平穏な日々が流れて行ったが、やがて四、五年すると、西国方面の浪人たちがひそかにこの船宿に泊ってひそびそと、時にはあたり憚か・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ けれどもまず平穏無事に日が経ちますうち、ちょうど八月の中ごろの馬鹿に熱い日の晩でございます、長屋の者はみんな外に出て涼んでいましたが私だけは前の晩寝冷えをしたので身体の具合が悪く、宵から戸を閉めて床に就きました。なんでも十時ごろまで外・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・梅子に対してはさすがの老先生も全然子供のようで、その父子の間の如何にも平穏にして情愛こまかなるを見る時は富岡先生実に別人のようだと誰しも思っていた位。「マアどうして?」村長は驚ろいて訊ねた。「どうしてか知らんが今度東京から帰って来て・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・その時は実に我もなければ他もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る、『僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど名利競争の俗念消えてすべての物に対する同情の念の深い時はない。『僕・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・無かった縁に迷いは惹かぬつもりで、今日に満足して平穏に日を送っている。ただ往時の感情の遺した余影が太郎坊の湛える酒の上に時々浮ぶというばかりだ。で、おれはその後その娘を思っているというのではないが、何年後になっても折節は思い出すことがあるに・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ されど、 憩いを知らぬ帆は、 嵐の中にこそ平穏のあるが如くに、 せつに狂瀾怒濤をのみ求むる也。 あわれ、あらしに憩いありとや。鶴は所謂文学青年では無い。頗るのんきな、スポーツマンである。けれども、恋人の森ち・・・ 太宰治 「犯人」
・・・ 中華民国には地方によってはまれに大地震もあり大洪水もあるようであるが、しかしあの厖大なシナの主要な国土の大部分は、気象的にも地球物理的にも比較的にきわめて平穏な条件のもとにおかれているようである。その埋め合わせというわけでもないかもし・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・臨終は平穏であった。みんなに看護の礼を言って暇ごいをして、自分の死後妻には自由を与えてやってくれと遺言して、静かに息を引きとったそうである。 急を聞いて国へ帰っていた亮の弟からその時の詳しい様子を聞いた時に、私はなんだかほっとしたような・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ こんなふうであったから、従って夜はおそくまで、朝は早くから起床して勉強に取りかかるというような例はなく、それに私の家はごく平穏、円満な家庭であったから、いつでも勉強したいと思う時には、なんの障害もなく、静かに、悠乎と読書に親しむことが・・・ 寺田寅彦 「わが中学時代の勉強法」
出典:青空文庫