・・・しかし年月はこの厭世主義者をいつか部内でも評判の善い海軍少将の一人に数えはじめた。彼は揮毫を勧められても、滅多に筆をとり上げたことはなかった。が、やむを得ない場合だけは必ず画帖などにこう書いていた。君看双眼色不語似無愁・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・ 年月のほどは、さる可き用もなければ云わず。とある年の秋の夕暮、われ独り南蛮寺の境内なる花木の茂みを歩みつつ、同じく切支丹宗門の門徒にして、さるやんごとなきあたりの夫人が、涙ながらの懺悔を思いめぐらし居たる事あり。先つごろ、その夫人のわ・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・けれども考えてみると、僕がここまで辿り着くのには、やはりこれだけの長い年月を費やす必要があったのだ。今から考えると、ようこそ中途半端で柄にもない飛び上がり方をしないで済んだと思う。あのころには僕にはどこかに無理があった。あのころといわずつい・・・ 有島武郎 「片信」
・・・立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月、寝ても覚ても、夢に、現に、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべき言を未だ知らずにいたから。 さりながら、さりながら、「立花さん、これが貴下の望じゃないの、天下・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 今思出でつと言うにはあらねど、世にも慕わしくなつかしきままに、余所にては同じ御堂のまたあらんとも覚えずして、この年月をぞ過したる。されば、音にも聞かずして、摂津、摩耶山の利天王寺に摩耶夫人の御堂ありしを、このたびはじめて知りたるなり。・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・僅かに『神稲水滸伝』がこれより以上の年月を費やしてこれより以上の巻を重ねているが、最初の構案者たる定岡の筆に成るは僅かに二篇十冊だけであって爾余は我が小説史上余り認められない作家の続貂狗尾である。もっともアレだけの巻数を重ねたのはやはり相当・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 長い年月の間、話をする相手もなく、いつも明るい海の面を憧がれて暮らして来たことを思いますと、人魚はたまらなかったのであります。そして、月の明るく照す晩に、海の面に浮んで岩の上に休んでいろいろな空想に耽るのが常でありました。「人間の・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ 長い年月の間、話をする相手もなく、いつも明るい海の面をあこがれて、暮らしてきたことを思いますと、人魚はたまらなかったのであります。そして、月の明るく照らす晩に、海の面に浮かんで、岩の上に休んで、いろいろな空想にふけるのが常でありました・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・少し真面目な口調に返り、「則ち女子は生命に倦むということは殆どない、年若い女が時々そんな様子を見せることがある、然しそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない、幸にしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ものいわず、歌わず、笑わずして年月を送るうちにはいかなる人も世より忘れらるるものとみえたり。源叔父の舟こぐことは昔に変わらねど、浦人らは源叔父の舟に乗りながら源叔父の世にあることを忘れしようになりぬ。かく語る我身すらおりおり源叔父がかの丸き・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫