・・・ 幾年か前、彼がまだ独りでいて、斯うした場所を飲み廻りほつき歩いていた時分の生活とても、それは決して今の生活と較べて自由とか幸福とか云う程のものではなかったけれど、併しその時分口にしていた悲痛とか悲惨とか云う言葉――それ等は要するに感興・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ この家はこの娘のためになんとなく幸福そうに見える。一群の鶏も、数匹の白兎も、ダリヤの根方で舌を出している赤犬に至るまで。 しかし向かいの百姓家はそれにひきかえなんとなしに陰気臭い。それは東京へ出て苦学していたその家の二男が最近骨に・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・けれど春子様、朝田は何時も静粛で酒も何にも呑まないで、少しも理窟を申しませんからお互に幸福ですよ。」「否、お二人とも随分理窟ばかり言うわ。毎晩毎晩、酔っては討論会を初めますわ!」 甲乙は噴飯して、申し合したように湯衣に着かえて浴場に・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・こういうことはやはり正面からの道が一番いいので、ほかから見れば、円満幸福に見えても、一つ一つの生活のはしばしまで、愛の行き渡り方、心のとけ合い方が違うのだ。 それに夫婦生活には必ず、倦怠期があるし、境遇上に不幸が襲うし、相手にそれほどで・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 彼等は、愉快な、幸福な気分を味わいながら駐屯地へ向って引き上げて行った。 大隊長は、司令部へ騎馬伝令を発して、ユフカに於けるパルチザンを残さず殲滅せしめたと報告した。彼は、部下よりも、もっと精気に満ちた幸福を感じていた。背後の村に・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・了らなければ遊べぬということと、朝は神仏祖先に対して為るだけの事を必ず為る、また朝夕は学校の事さえ手すきならば掃除雑巾がけを為るということと、物を粗末にしてはならぬという事とで責め立てられたのは、私の幸福になったに相違ないと思います。また観・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・わたくしは、長寿かならずしも幸福ではなく、幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。もしまた人生に、社会的価値とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・施与ということは妙なもので、施された人も幸福ではあろうが、施した当人の方は尚更心嬉しい。自分は饑えた人を捉えて、説法を聞かせたとも気付かなかった。十銭呉れてやった上に、助言もしてやった。まあ、二つ恵んでやった。と考えて、自分のしたことを二倍・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・あるいは百年千年の後には、その方が一層幸福な生存状態を形づくるかも知れないが、少なくともすぐ次の将来における自己の生というものが威嚇される。単身の場合はまだよいが、同じ自己でも、妻と拡がり子と拡がった場合には、いよいよそれが心苦しくなる。つ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・この人はまだ自分の体のうちに幸福を持っているらしい。この人なら人を助けてくれるだろう。」 青年は一刹那の間、老人と顔を見合せた。そしてなぜ見せている笑顔か知れない笑顔を眺めた。青年はその笑顔に励まされて、感動したような様子で、手に持った・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫