・・・を奏して通るのを高い窓からグレーチヘンが見おろしている、といったようなきわめて甘いたわいのない子供らしい夢の中からあらゆる具体的な表象を全部抜き去ったときに残るであろうと思われるような、全く形態のない幻想のようなものである。 天気が悪か・・・ 寺田寅彦 「詩と官能」
・・・しかしいずれにしても私の幻想を無雑作に事務的に破ってしまったSに対して、軽い不平を抱かないではいられなかった。そしてこんな些細な事柄にもオプチミストとペシミストの差別は現われるものかと思ったりした。 今日覗いてみると蜂の巣のすぐ上には棚・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・其処へ行くと哀れや、色さまざまのリボン美しといえども、ダイヤモンド入りのハイカラ櫛立派なりといえども、それらの物の形と物の色よりして、新時代の女子の生活が芸術的幻想を誘起し得るまでには、まだまだ多くの年月を経た後でなければならぬ。新時代の芸・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・音楽が誘いおこす幻想と周囲の実況とを全く分離せしめ、互に相冒さしめぬように努めることができるようになった。 露西亜オペラの一座はそれより二年を過ぎて大正十年の秋重ねて渡来し、東京に在っては帝国劇場と有楽座とに演奏をつづけた。わたくしが始・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・しかしそれとは全然性質を異にする三味線はいわば極めて原始的な単純なもので、決して楽器の音色からのみでは純然たる音楽的幻想を起させる力を持っていない。それ故日本の音楽にはいつも周囲の情景がその音楽的効果の上に欠くべからざる必要を生ぜしめるのは・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・彼らの姿は、真に幻想的な詩題であった。だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。彼らは銃剣で敵を突き刺し、その辮髪をつかんで樹に巻きつけ、高粱畠の薄暮の空に、捕虜になった支那人の幻想を野曝しにした。殺される支那・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・――一九二三、七、六―― 一 若し私が、次に書きつけて行くようなことを、誰かから、「それは事実かい、それとも幻想かい、一体どっちなんだい?」と訊ねられるとしても、私はその中のどちらだとも云い切る訳に行かない。私・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答えながらそれを又畳んでかくしに入れました。そしてきまりが・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭の幻想はもうこわれました。どうかあとの所はみなさんで活動写真のおしまいのありふれた舞踏か何かを使ってご勝手にご完成をねがうしだいであります。・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・リアリズムが人間の芸術表現にとって大地のような性質だということは、すべての架空な物語、幻想をとりあげてしらべてみるとわかる。どんな虚構、どんな作為のファンタジーにしても、それが文学として実在し、読者の心に実在感をもってうけいれられるためには・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
出典:青空文庫