・・・水の面が、水の面が、脈を打って、ずんずん拡がる。嵩増す潮は、さし口を挟んで、川べりの蘆の根を揺すぶる、……ゆらゆら揺すぶる。一揺り揺れて、ざわざわと動くごとに、池は底から浮き上がるものに見えて、しだいに水は増して来た。映る影は人も橋も深く沈・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・楽屋落ちのようだが、横に拡がるというのは森田先生の金言で、文章は横に拡がらねばならぬということであり、紅葉先生のは上に重ならねばならぬというのであった。 その年即ち二十七年、田舎で窮していた頃、ふと郷里の新聞を見た。勿論金を出して新聞を・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・たとえば貴重なる香水の薫の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸れ掛るように思われたので。……「ええ。」 ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・燈火はありませんが暗いような明るいような、畳の数もよく見える、一体その明がというと、女が身に纏っている、その真蒼な色の着物から膚を通して、四辺に射拡がるように思われるのでありまする。「ちょいと託ける事があるのだから、折角見えたものを情な・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ が、彼は、軍隊の要領は心得ていたので、本当の自分の心持は、誰れにも喋らず、偽札に憤慨したという噂は、流れ拡がるにまかせて、知らん顔をしていた。…… 七 鈴をつけた二十台ばかりの馬橇が、院庭に横づけに並んでいた・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 去年と同じ家のベランダに出て、軒にかぶさる厚朴の広葉を見上げ、屋前に広がる池の静かな水面を見おろしたときに、去年の夏の記憶がほんの二三日前のことであったようによみがえって来た。十か月以上の月日がその間に経過したとはどうしても思われなか・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ すべての雑音はその発音体を暗示すると同時にまたその音の広がる空間を暗示する。不幸にして現在の録音機と発声マイクロフォンとはその機巧のいまだ不完全なために、あらゆる雑音の忠実な再現に成功していない。それで、盲者が、話し声の反響で室の広さ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・それが、空の光の照明度がある限界値に達すると、多分細胞組織内の水圧の高くなるためであろう、螺旋状の縮みが伸びて、するすると一度にほごれ拡がるものと見える。それで烏瓜の花は、云わば一種の光度計のようなものである。人間が光度計を発明するよりもお・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・螺旋状の縮みが伸びて、するすると一度にほごれ広がるものと見える。それでからすうりの花は、言わば一種の光度計のようなものである。人間が光度計を発明するよりもおそらく何万年前からこんなものが天然にあったのである。 からすうりの花がおおかた開・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・なぜとならば、それはひょっとしたらどこまでも広がるかもしれないという恐れがあるからである。そうしてこの一つの「善い事」のために他にあらゆる「善い事」がたたき折られ踏みつぶされる心配があるからである。いくら折られつぶされても決して絶滅する恐れ・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
出典:青空文庫