・・・が、鬼神の瞳に引寄せられて、社の境内なる足許に、切立の石段は、疾くその舷に昇る梯子かとばかり、遠近の法規が乱れて、赤沼の三郎が、角の室という八畳の縁近に、鬢の房りした束髪と、薄手な年増の円髷と、男の貸広袖を着た棒縞さえ、靄を分けて、はっきり・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 綿を厚く入れた薄汚れた棒縞の広袖を着て、日に向けて背を円くしていたが、なりの低い事。草色の股引を穿いて藁草履で立っている、顔が荷車の上あたり、顔といえば顔だが、成程鼻といえば鼻が。」「でございましょうね、旦那様。」「高いんじゃ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 石川県能美郡片山津の、直侍とは、こんなものかと、客は広袖の襟を撫でて、胡坐で納まったものであった。「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で隣座敷へ行ってしまわれるんだと思うと、情ない気がするね。」「いいえ。――まあ、お重ねな・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
一「旦那さん、旦那さん。」 目と鼻の前に居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、つい箸の手をとめた痩形の、年配で――浴衣に貸広袖を重ねたが――人品のいい客が、「ああ、何だい。」「どうだね、おいし・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・誠や温泉の美くしさ、肌、骨までも透通り、そよそよと風が身に染みる、小宮山は広袖を借りて手足を伸ばし、打縦いでお茶菓子の越の雪、否、広袖だの、秋風だの、越の雪だのと、お愛想までが薄ら寒い谷川の音ももの寂しい。 湯上りで、眠気は差したり、道・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
出典:青空文庫