・・・所が、この逆上では、登城の際、附合の諸大名、座席同列の旗本仲間へ、どんな無礼を働くか知れたものではない。万一それから刃傷沙汰にでもなった日には、板倉家七千石は、そのまま「お取りつぶし」になってしまう。殷鑑は遠からず、堀田稲葉の喧嘩にあるでは・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・出て見ると、空はどんよりと曇って、東の方の雲の間に赤銅色の光が漂っている、妙に蒸暑い天気でしたが、元よりそんな事は気にかける余裕もなく、すぐ電車へ飛び乗って、すいているのを幸と、まん中の座席へ腰を下したそうです。すると一時恢復したように見え・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ クララは寺の入口を這入るとまっすぐにシッフィ家の座席に行ってアグネスの側に坐を占めた。彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視線をすぐに左の頬に感じたけれども、もうそんな事に頓着はしていなかった。彼女は座席につくと面・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・相当にぜいたくのできる生活をして、こういう態度に出るほど今の世に居心地のよい座席はちょっとあるまいと思われるから。自己の心情の矛盾に対して、平らかなりえない心持ちの動くべきではないかとの氏の詰問には一言もない。僕は氏が希望するほどにそうした・・・ 有島武郎 「片信」
・・・…… 座席の青いのに、濃い緑が色を合わせて、日の光は、ちらちらと銀の蝶の形して、影も翼も薄青い。 人、馬、時々飛々に数えるほどで、自動車の音は高く立ちながら、鳴く音はもとより、ともすると、驚いて飛ぶ鳥の羽音が聞こえた。 一二軒、・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ その少女はつつましい微笑を泛べて彼の座席の前で釣革に下がっていた。どてらのように身体に添っていない着物から「お姉さん」のような首が生えていた。その美しい顔は一と眼で彼女が何病だかを直感させた。陶器のように白い皮膚を翳らせている多いうぶ・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・そこで彼等は自分の座席を取って、防寒帽を脱ぎ、硝子窓の中から顔を見せた。 そこには、線路から一段高くなったプラットフォームはなかった。二人は、線路の間に立って、大きな列車を見上げた。窓の中から、帰る者がそれ/″\笑って何か云っていた。だ・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・床の間を背にして、五所川原の先生それから北さん、中畑さん、それに向い合って、長兄、次兄、私、美知子と七人だけの座席が設けられていた。「速達が行きちがいになりまして。」私は次兄の顔を見るなり、思わずそれを言ってしまった。次兄は、ちょっと首・・・ 太宰治 「故郷」
・・・僕の座席のとなりにいつも異人の令嬢が坐るのでねえ。このごろはそれがたのしみさ」言い終えたら、鼠のような身軽さでちょこちょこ走り去った。「ちえっ! 菊ちゃん、ビイルをおくれ。おめえの色男がかえっちゃった。佐野次郎、呑まないか。僕はつまらん・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 福島を過ぎた頃から、客車は少しすいて来て、私たちも、やっと座席に腰かけられるようになりました。ほっと一息ついたら、こんどは、食料の不安が持ちあがりました。おにぎりは三日分くらい用意して来たのですが、ひどい暑気のために、ごはん粒が納豆の・・・ 太宰治 「たずねびと」
出典:青空文庫