・・・――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・めに、女の生肝を取ろうとするような殿様だもの……またものは、帰って、腹を割いた婦の死体をあらためる隙もなしに、やあ、血みどれになって、まだ動いていまする、とおのが手足を、ばたばたと遣りながら、お目通、庭前で斬られたのさ。 いまの祠は……・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・と巨なる鼻を庭前へ差出しぬ。 未だ乞食僧を知らざる者の、かかる時不意にこの鼻に出会いなば少なくとも絶叫すべし、美人はすでに渠を知れり。且つその狂か、痴か、いずれ常識無き阿房なるを聞きたれば、驚ける気色も無くて、行水に乱鬢の毛を鏡に対して・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・若者一個庭前にて何事をかなしつつあるを見る。礫多き路に沿いたる井戸の傍らに少女あり。水枯れし小川の岸に幾株の老梅並び樹てり、柿の実、星のごとくこの梅樹の際より現わる。紅葉火のごとく燃えて一叢の竹林を照らす。ますます奥深く分け入れば村窮まりて・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ ホテルの三階のヴェランダで見ていると、庭前の噴水が高くなり低くなり、細かく砕けたりまた棒立ちになったりする。その頂点に向かう視線が山頂への視線を越しそうで越さない。風が来ると噴水が乱れ、白樺が細かくそよぎ竹煮草が大きく揺れる。ともかく・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・たとえば、春季に庭前の椿の花の落ちるのでも、ある夜のうちに風もないのにたくさん一時に落ちることもあれば、また、風があってもちっとも落ちない晩もある。この現象が統計的型式から見て、いわゆる地震群の生起とよく似たものであることは、すでに他の場所・・・ 寺田寅彦 「藤の実」
・・・においていわゆる連作の最始のものとして引用されている子規の十首、庭前の松に雨が降りかかるを見て作ったものを点検してみると、「松の葉」という言葉が六回、「松葉」が一つ、「葉」が七、「露」が九、「雨」が三、「玉」が六、「こぼれ」という三字が五回・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・一つの雑誌の写真には、美しい流行の服装をした令嬢が一匹数百円よりもっとしそうな堂々たる犬を左右において、広やかな庭前で写真にとられている。 他の雑誌では、機械工として働いている若い娘さんたちの姿、男がわりに田の植付けをしている娘さんたち・・・ 宮本百合子 「若い娘の倫理」
出典:青空文庫