・・・彼は小説家だが、彼の書く小説にはつねに庶民が出て来た。彼自身市井の塵埃や泥の中に身を横たえて書いたと思われるような小説が多かった。たまたまブルジョワが出て来てもしかしそれはブルジョワを攻撃するためであった。乗物は二等より三等を愛し、活動写真・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ そんなことがあってみれば、その夜、ことに自作が発売禁止処分を受けて、もう当分自分の好きな大阪の庶民の生活や町の風俗は描けなくなったことで気が滅入り、すっかりうらぶれた隙だらけの気持になっている夜、「ダイス」のマダムに会うのはますます危・・・ 織田作之助 「世相」
武田さんは大阪の出身という点で、私の先輩であるが、更に京都の第三高等学校出身という点でもまた私の先輩である。しかも、武田さんは庶民作家として市井事物一点張りに書いて来た。その点でも私は血縁を感じている。してみれば、文壇でも・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・此頃は上は大将軍や管領から、下は庶民に至るまで、哀れな鳥や獣となったものが何程有ったことだったろう。 此処は当時明や朝鮮や南海との公然または秘密の交通貿易の要衝で大富有の地であった泉州堺の、町外れというのでは無いが物静かなところである。・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・私は貧しい庶民です。けれども自分ひとりの感動の有無だけは、いつでも正直に表現していたいと思っています。私は、エホバを畏れています。 どうも私は、立派そうな事を言うのが、てれくさくていけません。モーゼほどの鉄石の義心と、四十年の責任感とを・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・その埋め合わせというわけでもないかもしれないが、昔から相当に戦乱が頻繁で主権の興亡盛衰のテンポがあわただしくその上にあくどい暴政の跳梁のために、庶民の安堵する暇が少ないように見える。 災難にかけては誠に万里同風である。浜の真砂が磨滅して・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・この一生懸命で濃厚な作品に、本質的な未熟さとしてあるのは、庶民の生活感情と勤労者の生活感情とのちがいについて、作者がちっともわかっていないという点であるということを。「一つの芽生」は、弟の死という事実に面して、その悲しみをどこまでも客観・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第一巻)」
・・・鴎外が、当時の江戸の庶民生活のありようの一典型として喜助のめぐり会わせを追究していないとこも、一方には注目される。作者を動かしたつよいモティーヴの一つであるユウタナジイの問題にしろ、同じ事情が武士の兄弟の間におこったとしたら、当時の通念はそ・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・落語をこのむ江戸庶民の感覚で、奥女中あがりを女房にした長屋の男の困却を諧謔の主題にしたものだった。奥女中だった女が、長屋ものの女房になってもまだ勿体ぶったお女中言葉をつかっている。そのみのない横柄ぶりが武士大名への諷刺として可笑しく笑わせる・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・その時代時代の軍事上の覇者たちが英雄権力者として扱われていた。庶民の日々の営みとその生産の発展などにつき、これまで、日本歴史は眼をくれなかった。幼ごころのそもそもから、軍事的であり侵略を勝利として扱ったものの考えかたで養われてきた正直な幾千・・・ 宮本百合子 「『くにのあゆみ』について」
出典:青空文庫