・・・芝生の真中で三、四人弁当をひろげて罎詰めの酒を酌んでいる一団がある。中年の商人風の男の中に交じった一人の若い女の紫色に膨れ上がった顔に白粉の斑になっているのが秋の日にすさまじく照らし出されていた。一段降りて河畔の運動場へ出ると、男女学生の一・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ お絹は著ものを著かえる前に、棚から弁当を取りだして、昨夜から註文をしておいた、少しばかりの御馳走やおすしを、お箸で詰めかえていた。山遊びの弁当には酒を入れる吸筒もついていて、吼の蒔絵がしてあった。「今でもこんなものを持ってゆくのか・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・あっぱっぱのはだけた胸に弁当箱をおしつけて肩をゆすりながらくる内儀さん。つれにおくれまいとして背なかにむすんだ兵児帯のはしをふりながらかけ足で歩く、板裏草履の小娘。「ぱっぱ女学生」と土地でいわれている彼女たちは、小刻みに前のめりにおそろしく・・・ 徳永直 「白い道」
・・・そして車の中には桜と汐干狩の時節には、弁当付往復賃銭の割引広告が貼り出される。 * 放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に逢わぬことである。平素市・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・――昔しあるお大名が二人目黒辺へ鷹狩に行って、所々方々を馳け廻った末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来とも離れ離れになって口腹を充たす糧を受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにある汚ない百姓家へ馳け込んで、何でも好いから・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・そして弁当箱を首に巻きつけて、一杯飲んで食うことを専門に考えながら、彼の長屋へ帰って行った。発電所は八分通り出来上っていた。夕暗に聳える恵那山は真っ白に雪を被っていた。汗ばんだ体は、急に凍えるように冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曾川・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・おらも弁当食うべ。ああ心配した。俺も虎こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつ好がった。雨も晴れる。」「今朝ほんとに天気好がったのにな。」「うん。また好ぐなるさ。あ、雨漏ってきた。草少し屋根さかぶせろ。」 兄さんが出て行きました・・・ 宮沢賢治 「種山ヶ原」
・・・検事という職務の官吏が、みんな自家用自動車で通勤してはいない。弁当の足りないことを心のうちに歎じつつ、彼等も人の子らしく、おそろしい電車にもまれて、出勤し、帰宅していると思う。官吏の経済事情は、旧市内のやけのこったところに邸宅をもつことは許・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・そこには弁当と蝙蝠傘とが置いてある。沓も磨いてある。 木村は傘をさして、てくてく出掛けた。停留場までの道は狭い町家続きで、通る時に主人の挨拶をする店は大抵極まっている。そこは気を附けて通るのである。近所には木村に好意を表していて、挨拶な・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・灸は弁当を下げたかった。早くオルガンを聴きながら唱歌を唄ってみたかった。「灸ちゃん。御飯よ。」と姉が呼んだ。 茶の間へ行くと、灸の茶碗に盛られた御飯の上からはもう湯気が昇っていた。青い野菜は露の中に浮んでいた。灸は自分の小さい箸をと・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫