・・・「どこへ引っ越しするの?」「遠い、浅草の方なんだ。」 その日、勇ちゃんは、学校から帰ると遊びにいきました。 すると、もう店には道具がなかったのです。「このすいれんをあげよう。クリーム色の花が咲くんだぜ。」と、木田が裏から・・・ 小川未明 「すいれんは咲いたが」
・・・元は佃島の者で、ここへ引っ越して来てからまだ二年ばかりにもならぬのであるが、近ごろメッキリ得意も附いて、近辺の大店向きやお屋敷方へも手広く出入りをするので、町内の同業者からはとんだ商売敵にされて、何のあいつが吉新なものか、煮ても焼いても食え・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・なまめいているといえば、しかし、引っ越しの日に手伝いに来ていた玉子という見知らぬ女も、首筋だけ白粉をつけていて、そして浜子がしていたように浴衣の裾が短かく、どこかなまめいているように、子供心にも判りました。玉子はあと片づけがすんでも帰らぬと・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ず吉田も吉田の母も弟も、それまで外で家を持っていた吉田の兄の家の世話になることになり、その兄がそれまで住んでいた町から少し離れた田舎に、病人を住ますに都合のいい離れ家のあるいい家が見つかったのでそこへ引っ越したのがまだ三ヶ月ほど前であった。・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ ねエもうこんなところは引っ越してしまいたいねエ。』女房は心細そうに言った。『ばか言ってらア、死ぬる奴は勝手に死ぬるんだ、こっちの為じゃアねエ。踏切の八百屋で顔が売れてるのを引っ越してどこへ行くんだイ。死にたい奴はこの踏切で遠慮なしにや・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・「とうさん、障子なんか張るのかい。」 次郎はしばらくそこに立って、私のすることを見ていた。「引っ越して行く家の障子なんか、どうでもいいのに。」「だって、七年も雨露をしのいで来た屋根の下じゃないか。」 と私は言ってみせた。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 透谷君がよく引っ越して歩いた事は、已に私は話した事があるから、知っている読者もあるであろうと思うが、一時高輪の東禅寺の境内を借りて住んでいた事があって、彼処で娘のふさ子さんが生れた。彼処に一人食客がいた事は、戸川君も一度書いた事がある・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ この三郎を郊外のほうへ送り出すために、私たちの家では半分引っ越しのような騒ぎをした。三郎の好みで、二枚の座ぶとんの更紗模様も明るい色のを造らせた。役に立つか立たないかしれないような古い椅子や古い時計の家にあったのも分けた。持たせてやる・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ 堅吉は二三年前に今の家に引っ越してから裏庭へ小さな花壇のようなものを作って四季の草花などを植えていた。去年の秋は神田の花屋で、チューリップと、ヒアシンスと、クロッカスとの球根を買って来て、自分で植えもし、堀り上げもしたので、この三つの・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・そのころの給仕人は和服に角帯姿であったが、震災後向かい側に引っ越してからそれがタキシードか何かに変わると同時にどういうものか自分にはここの敷居が高くなってしまった、一方ではまたSとかFとかKとかいうわれわれ向きの喫茶店ができたので自然にそっ・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
出典:青空文庫