・・・その時もおげんは家を出る決心までして、東京の方に集まっている親戚の家を訪ねに行ったこともあったが、人の諫めに思い直して国へと引返した。あれほどおげんは頼み甲斐のない旦那から踏みにじられたように思いながらも、自分の前に手をついて平あやまりにあ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 初めての授業を終って、復た高瀬がこの二階へ引返して来る頃は、丁度二番の下り汽車が東京の方から着いた。盛んな蒸汽の音が塾の直ぐ前で起った。年のいかない生徒等は門の外へ出て、いずれも線路側の柵に取附き、通り過ぎる列車を見ようとした。「・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・その外の男等は冷淡に踵を旋らして、もと来た道へ引き返した。頭を垂れて、唇を噛みながらゆるやかに引返した。この男等は、人に分けてやるようなものは持っていないのである。自分等も借りて食っているのである。 老人はまだ両腕を高く上げて、青年の顔・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・頭を垂れて、唇を噛みながらゆるやかに引返した。この男等は、人に分けてやるようなものは持っていないのである。自分等も借りて食っているのである。 老人はまだ両腕を高く上げて、青年の顔を見ている。「さあ、今のは笑談だと、つい一言いってくれ」と・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・あとで考えると、このへんで引き返しさえしたらよかったのに、自分はいつまでも馬の臀について、山畠を五つも六つも越えて、とうとお長の行くところまで行ったのであった。谷合いの畠にお長の双た親と兄の常吉がいた。二三寸延びた麦の間の馬鈴薯を掘っていた・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ビイルが無くなってしまったので、私達は又、三島の町へ引返して来ました。随分遠い道のりだったので、私は歩きながら、何度も何度も、こくりと居眠りしました。あわててしぶい眼を開くと蛍がすいと額を横ぎります。佐吉さんの家へ辿り着いたら、佐吉さんの家・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 第一日には頂上までの五分の一だけ登って引返し、第二日目は休息、第三日は五分の二までで引返し、第四日休息、アンド・ソー・オン。そうして第八日第九日目を十分に休養した後に最後の第十日目に一気に頂上まで登る、という、こういうプランで遂行すれ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・谷から上がってから、僕が登ろうと主張したのを、君が何でも下りようと云うから、ここまで引き返したじゃないか」「昨日は格別さ。二百十日だもの。その代り僕は饂飩を何遍も喰ってるじゃないか」「ハハハハ、ともかくも……」「まあいいよ。談判・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・私は後へ引返して、逆に最初の道へ戻ろうとした。そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった。山は次第に深くなり、小径は荊棘の中に消えてしまった。空しい時間が経過して行き、一人の樵夫にも逢わなかった。私はだんだん・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・江戸参勤中で遠江国浜松まで帰ったが、訃音を聞いて引き返した。光貞はのち名を光尚と改めた。二男鶴千代は小さいときから立田山の泰勝寺にやってある。京都妙心寺出身の大淵和尚の弟子になって宗玄といっている。三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養わ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫