・・・ら、そんな事は思ってはいないけれど、余り家に居て食い潰し食い潰しって云われるのが口惜いから、叔父さんにあ済まないけれどどこへでも出て、どんな辛い思いをしても辛棒をして、すこしでもいいから出世したいや。弱虫だ弱虫だって衆が云うけれど、おいらだ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・「頭が痛いぐらいで学校を休むなんて、そんな奴があるかい。弱虫め。」「まあ、そんなひどいことを言って、」とお初は兄さんをなだめるようにした。「袖子さんは私が休ませたんですよ――きょうは私が休ませたんですよ。」 不思議な沈黙が続いた・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
映画を好む人には、弱虫が多い。私にしても、心の弱っている時に、ふらと映画館に吸い込まれる。心の猛っている時には、映画なぞ見向きもしない。時間が惜しい。 何をしても不安でならぬ時には、映画館へ飛び込むと、少しホッとする。・・・ 太宰治 「弱者の糧」
・・・下着は、上から下まで縫い目なしの全部その形のままに織った実にめずらしい衣だったので、兵卒どもはその品の高尚典雅に嘆息をもらしたと聖書に録されてあったけれども、 妻よ、 イエスならぬ市井のただの弱虫が、毎日こうして苦しんで、そうして、・・・ 太宰治 「小志」
・・・ちぇっ、そんな叫び声あげたくらいで、自分の弱虫を、ごまかそうたって、だめだぞ。もっとどうにかなれ。私は、恋をしているのかも知れない。青草原に仰向けに寝ころがった。「お父さん」と呼んでみる。お父さん、お父さん。夕焼の空は綺麗です。そうして・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・好色だ。弱虫だ。神の審判の台に立つ迄も無く、私は、つねに、しどろもどろだ。告白する。私は、やっぱり袴をはきたかったのである。大演説なぞと、いきり立ち、天地もゆらぐ程の空想に、ひとりで胸を轟かせ、はっと醒めては自身の虫けらを知り、頸をちぢめて・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・よそで殴られて、家へ帰って告げ口している弱虫の子供に似ているところがある。「あなたが甘やかしてばかりいるからよ。」家の者は、たのしそうな口調で言った。「あなたはいつでも皆さんを甘やかして、いけなくしてしまうのです。」「そうか。」意外・・・ 太宰治 「誰」
・・・だから、そういういわば弱虫が、妻子を養ってゆくということは、むしろ悲惨といってもいいのではないかと思うこともあります。 太宰治 「わが半生を語る」
・・・そうしてそのときに池に残された弱虫のほうの雄が、今ではこの池の王者となり暴君となりドンファンとなっているのである。 七月末に一度帰京してちょうど二週間たって再び行って見て驚いたのはあひるのひなの生長の早いことであった。あの黄色いうぶ毛は・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・こんな訳だから、学校でも軍人希望の者などとはどうしても肌が合わぬ、そう云う連中から弱虫党と目指されて、行軍や演習の時など、ずいぶん意地悪くいじめられたものだ。実際弱虫の泣虫にはちがいなかったが、それでも曲った事や無法な事に負かされるのは大嫌・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
出典:青空文庫