・・・と言えども色に出づる不満、綱雄はなおも我を張りて、ではありますが、これが他人ならとにかく、あなたであって見れば私はどこまでも信ずるところを申します。私は強いてお止め申さんければならぬ。 黙らっしゃい。と荒々しき声はついに迸りぬ。私はもう・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と、上田は冷ややかに笑います、鷹見は、「イヤ、あんな男に限って、女にかあいがられるものサ、女の言いなりほうだいになっていて、それでやはり男だから、チョイと突っ張ってみる、いわゆる張りだね、女はそういうふうな男を勝手にしたり、また勝手にさ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・結婚前には心を張り、体を清くして、美しい恋愛に用意していなければならぬ。自分の妻を、子どもの母をきめんための恋愛だからだ。結婚前に遊戯恋愛や、情事をつみ重ねようとすることは実に不潔な、神聖感の欠けた心理といわねばならぬ。不潔なもの、散文的な・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。「まあ、ヨシナガサン! いらっしゃい。」 娘は嬉しそうに、にこにこしながら、手を出した。 彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ですから私の就学した塾なども矢張り其の古風の塾で、特に先生は別に収入の途が有って立派に生活して行かるる仁であったものですから、猶更寛大極まったものでした。紹介者に連れて行って貰って、些少の束修――金員でも品物でもを献納して、そして叩頭して御・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ 矢張り東京へ出してやったのが悪かった、と母親は思った。何時でも眼やにの出る片方の眼は、何日も何日も寝ないために赤くたゞれて、何んでもなくても独りで涙がポロポロ出るようになった。 角屋の大きな荒物屋に手伝いに行っていたお安が、兄のこ・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・せめて私は毎日ながめ暮らす身のまわりだけでも繕いたいと思って、障子の切り張りなどをしていると、そこへ次郎が来て立った。「とうさん、障子なんか張るのかい。」 次郎はしばらくそこに立って、私のすることを見ていた。「引っ越して行く家の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ゲエテ一点張りである。これとても、ゲエテの素朴な詩精神に敬服しているのではなく、ゲエテの高位高官に傾倒しているらしい、ふしが、無いでもない。あやしいものである。けれども、兄妹みんなで、即興の詩など、競作する場合には、いつでも一ばんである。で・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・私はただ漠然と日常の世界に張り渡された因果の網目の限りもない複雑さを思い浮べるに過ぎなかった。 あらゆる方面から来る材料が一つの釜で混ぜられ、こなされて、それからまた新しい一つのものが生れるという過程は、人間の精神界の製作品にもそれに類・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・当時都下の温泉旅館と称するものは旅客の宿泊する処ではなくして、都人の来って酒宴を張り或は遊冶郎の窃に芸妓矢場女の如き者を拉して来る処で、市中繁華の街を離れて稍幽静なる地区には必温泉場なるものがあった。則深川仲町には某楼があり、駒込追分には草・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫