・・・太十は独で笑いながら懐へ入れて見ると矢張りくるりとなって寝た。鍋の破片へ飯をくれたが食わない。味噌汁をかけてやったらぴしゃぴしゃと甞めた。暫くすると小さいながら尾を動かしてちょろちょろと駈け歩いた。お石が村を立ってから犬は太十の手に飼われた・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 女は洗えるままの黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇を軽く揺がせば、折々は鬢のあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉の常よりもなお晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私も画になり・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・船員が極り切って着ている、続きの菜っ葉服が、矢っ張り私の唯一の衣類であった。 私は半月余り前、フランテンの欧洲航路を終えて帰った許りの所だった。船は、ドックに入っていた。 私は大分飲んでいた。時は蒸し暑くて、埃っぽい七月下旬の夕方、・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・唯都々一は三味線に撥を打付けてコリャサイなど囃立つるが故に野鄙に聞ゆれども、三十一文字も三味線に合してコリャサイの調子に唄えば矢張り野鄙なる可し。古歌必ずしも崇拝するに足らず。都々一も然り。長唄、清元も然り。都て是れ坊主の読むお経の文句を聞・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・それから下巻になると、矢張り多少はそれ等の人々の影響もあるが、一番多く真似たのはガンチャロフの文章であった。 さて『浮雲』の話の序でだが、前に金を取りたい為にあれを作ったと云った。然う云って了えば生優しい事だが、実はあれに就いては人の知・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・白地に文様のある紙で壁を張り、やはり白地に文様のある布で家具が包んである。木道具や窓の龕が茶色にくすんで見えるのに、幼穉な現代式が施してあるので、異様な感じがする。一方に白塗のピアノが据え附けてあって、その傍に Liberty の薄絹を張っ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そうすれば其棺は非常に窮屈な棺で、其窮屈な所が矢張り厭な感じがする。 スコットランドのバラッドに Sweet William's Ghost というのがある。この歌は、或女の処へ、其女の亭主の幽霊が出て来て、自分は遠方で死だという事を知・・・ 正岡子規 「死後」
・・・四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。 まもなくみんなははきものを下駄箱に入れて教室へはいって、ちょうど外へならんだときのよ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 私のえがいているもの――そうですね、私は慾張りの方ですから、随分いろいろな慾望がありますけれど、日常の生活でいえば、さしあたり静かなところへ旅行したいと思っています。同じ旅行でも関西方面より北の方がいいと思います。大阪、京都などのよう・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・それから寄ってたかってお蝶を揶揄ったところが、おとなしいことはおとなしくても、意気地のある、張りの強いお蝶は、佐野と云うその書生さんの身の上を、さっぱりと友達に打ち明けた。佐野さんは親が坊さんにすると云って、例の殺生石の伝説で名高い、源翁禅・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫