・・・それが、私の眼鏡を見て、強いて近眼らしくよそおうとしているものと睨んだのである。御自分の眼鏡には、一向気づかなかったものらしい! そこで、私は、入営することになった。 十一月の末であった。 汽船で神戸まで来て、神戸から姫路へ行っ・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・ところが世の中のお定まりで、思うようにはならぬ骰子の眼という習いだから仕方が無い、どうしてもこうしてもその女と別れなければならない、強いて情を張ればその娘のためにもなるまいという仕誼に差懸った。今考えても冷りとするような突き詰めた考えも発さ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ただ窟の内のさまざまの名は皆強いて名づけたるにて、名に副うものは一もなし。 窟禅定も仕はてたれば、本尊の御姿など乞い受けて、来し路ならぬ路を覚束なくも辿ることやや久しく、不動尊の傍の清水に渇きたる喉を潤しなどして辛くも本道に出で、小野原・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・生き甲斐を、身にしみて感じることが無くなった。強いて言えば、おれは、めしを食うとき以外は、生きていないのである。ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなければ、生活意慾の概念でもない。直接に、あの茶碗一ぱいのめしのことを指して言っている・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・どうしても我慢して見て、強いていいところを捜してやろうという気になれないのである。これらの絵全体から受ける感じは、丁度近頃の少年少女向けの絵雑誌から受けると全く同じようなものである。帝展の人気のある所因は事によるとここにあるかもしれないが、・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・莟んでいるのを無理に指先でほごして開かせようとしても、この白い繊維は縮れ毛のように捲き縮んでいてなかなか思うようには延ばされない。強いて延ばそうとすると千切れがちである。それが、空の光の照明度がある限界値に達すると、多分細胞組織内の水圧の高・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・カッフェーの料理は殆ど口には入れられないほど粗悪であるが、然し僕は強いて美食を欲するものでもない。毒にもならずして腹のはるものならば大抵は我慢をして食う。若し自分の口に適したものが是非にもほしいと思う時には、僕は人の手を借らずに自分で料理を・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・色には直せぬ声じゃ。強いて云えば、ま、あなたのような声かな」「ありがとう」と云う女の眼の中には憂をこめて笑の光が漲ぎる。 この時いずくよりか二疋の蟻が這い出して一疋は女の膝の上に攀じ上る。おそらくは戸迷いをしたものであろう。上がり詰・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・晴れかかりたる眉に晴れがたき雲の蟠まりて、弱き笑の強いて憂の裏より洩れ来る。「贈りまつれる薔薇の香に酔いて」とのみにて男は高き窓より表の方を見やる。折からの五月である。館を繞りて緩く逝く江に千本の柳が明かに影をひたして、空に崩るる雲の峰・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・私は復古癖の人のように、徒らに言語の純粋性を主張して、強いて古き言語や語法によって今日の思想を言い表そうとするものに同意することはできない。無論、古語というものは我々の言語の源であり、我民族の成立と共に、我国語の言語的精神もそこに形成せられ・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
出典:青空文庫