・・・が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。 渋谷の金王桜の評判が、洗湯の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打の大事を打ち・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そのうちにだんだん達雄に対する彼女の愛を感じはじめる。同時にまた目の前へ浮かび上った金色の誘惑を感じはじめる。もう五分、――いや、もう一分たちさえすれば、妙子は達雄の腕の中へ体を投げていたかも知れません。そこへ――ちょうどその曲の終りかかっ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・仁右衛門が取合わないので彼女はさすがに小屋の中には這入らなかった。そして皺枯れた声でおめき叫びながら雨の中を帰って行ってしまった。仁右衛門の口の辺にはいかにも人間らしい皮肉な歪みが現われた。彼れは結局自分の智慧の足りなさを感じた。そしてまま・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そう思って彼女は何とかせねばならぬと悶えながらも何んにもしないでいた。慌て戦く心は潮のように荒れ狂いながら青年の方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・急き込みて、「その言は聞いたけれど、女の身にもなって御覧、あんな田舎へ推込まれて、一年越外出も出来ず、折があったらお前に逢いたい一心で、細々命を繋いでいるもの、顔も見せないで行かれちゃあ、それこそ彼女は死んでしまうよ。お前もあんまり察し・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・それで彼女は長い手紙を書きます。実に読むのに骨が折れる。しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます。その女は信者でも何でもない。毎月三日月様になりますと私のところへ参って「ドウゾ旦那さまお銭を六厘」という。「何に使うか」というと、黙っている・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 彼女はまた、その家の窓の下にきて、石の上に立って中をのぞいてみました。すると、へやの中のようすは、これまでとはすっかり変わっていました。もっと美しく、もっときれいに、もっと珍しいものばかりで飾られているばかりでなく、三人の娘らのほかに・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・ 電車の停留場に向かって、歩く途中で、ふと天上の一つの星を見て、こういいました。その星は、いつも、こんなに、青く光っていたのであろうか。それとも、今夜は、特にさえて見えるのだろうか。 彼女は、無意識のうちに、「私の生まれた、北国では・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・「彼女はなんぞ僕の悪ぐち言うてましたやろ?」 案外にきつい口調だった。けれど、彼女という言い方にはなにか軽薄な調子があった。「いや、べつに……」「嘘言いなはれ。隠したかてあきまへんぜ。僕のことでなんぞ聴きはりましたやろ。違い・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない処から来たのだ。彼女は女だ。そしてまた、自分が嬶や子供の為めに自分を殺す気になれないと同じように、彼女だってまた亭主や子供の為めに乾干になると云うことは出来ないのだ」彼はまた斯うも思い返した。……・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫