・・・ 夢のなかの彼女は、鏡の前で化粧していた。私は新聞かなにかを見ながら、ちらちらその方を眺めていたのであるが、アッと驚きの小さな声をあげた。彼女は、なんと! 猫の手で顔へ白粉を塗っているのである。私はゾッとした。しかし、なおよく見ていると・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 今日汽車の内なる彼女の苦悩は見るに忍びざりき、かく言いて二郎は眉をひそめ、杯をわれにすすめぬ。泡立つ杯は月の光に凝りて琥珀の珠のようなり。二郎もわれもすでに耳熱し気昂れり。月はさやかに照りて海も陸もおぼろにかすみ、ここかしこの舷燈は星・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 地上には花さえ美しいのにさらに娘というものがある。彼女たちは一体何ものだ。自然から美しく創りなされて、自分たちを誘うような、少なくとも待ってるように見えるこの人間群は。 彼女たちは自分たちよりつつましく、優美に造られているようであ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 女は、新聞紙に包んだものを窓から受取ると、すぐ硝子戸を閉めた。「おい、もっと開けといてくれんか。」「……室が冷えるからだめ。――一度開けると薪三本分損するの。」 彼女は、桜色の皮膚を持っていた。笑いかけると、左右の頬に、子・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・それによると最近彼女はある男と結婚することに決まっていた。――「犬だって!」犬だって、これじゃあまり惨めだ! 龍介は誇張なしにそう思って、泣いた。龍介は女を失ったということより、今はその侮辱に堪えられなかった。心から泣けた。――何回も何・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやった。彼女の内部にはこんな独言を言う二人の人が居た。 おげんはもう年をとって、心細かった。彼女は嫁いで行った小山の家の祖母さんの死を見送り、旦那と自分の間に出来た小山の相続・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・もしやよけいなことを聞いたりして、千鳥の話の中の彼女に少しでも傷がついては惜しいわけである。こう思ったから自分はその夕方、小母さんや初やなどに会うのが気になった。二人が何とか藤さんの身の上を語って、千鳥の話を壊しはしまいかと気がもめた。・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 女の子が、スバシニと云う名を与えられた時、誰が、彼女の唖なことを思い当ることが出来ましょう。彼女の二人の姉は、スケシニスハスニと云う名でした。お揃にする為、父親は一番末の娘にも、スバシニと云う名をつけたのでした。彼女は、其をち・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・あの屋根のしたに、いまの女と、それから彼女の亭主とが寝起している。なんの奇もない屋根のしたに、知らせて置きたい生活がある。ここへ坐ろう。 あの家は元来、僕のものだ。三畳と四畳半と六畳と、三間ある。間取りもよいし、日当りもわるくないの・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・そうして彼女の心の態度はこのライトモチーフの現われるたびごとに急角度で転回する。そうしてその一転ごとにだんだんにそうして不可避的に最後のクライマックスに近づいて行くのである。 太鼓の描くこの主題の伴奏としてはラッパのほかに兵隊の靴音があ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫