・・・この男は少し変りもので、横着もので、随分人をひやかすような口ぶりをする奴ですから、『殴るぞ』と尺八を構えて喝す真似をしますと、彼奴急に真面目になりまして、『修蔵様に是非見てもらいたいものがあるんだが見てくれませんか』と妙なことを言い出し・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 富岡先生、と言えばその界隈で知らぬ者のないばかりでなく、恐らく東京に住む侯伯子男の方々の中にも、「ウン彼奴か」と直ぐ御承知の、そして眉をひそめらるる者も随分あるらしい程の知名な老人である。 さて然らば先生は故郷で何を為ていたかとい・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・真実彼奴はそう信じて言うわけじゃない。あれは当世流の理屈で、だれも言うたと、言わば口前だ。徳の本心はやっぱりわしを引っぱり出して五円でも十円でもかせがそうとするのだ、その証拠には、せんだってごろまでは遊んで暮らすのはむだだ、足腰の達者なうち・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・「オイ君、中西が来た!」「そしてどうした?」「いま君が聞いたとおりサ、留守だと言って帰したのだ。」「そいつは弱った。」「彼奴一週間後でなければ上京られないと言って来たから、帳場に彼奴のことを言っておかなかったのだ。まアい・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・ですから、「彼奴高慢な顔をして、出来も仕無い癖にエラがって居る、一つ苦しめて遣れ」というような事ですから、今思い出すとおかしくてならんような争い方を仕たものです。或る一人が他の一人を窘めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引を・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ お君は刑務所からの帰りに、何度も何度も考えた――うまい乳が出なかったら、よろしい! 彼奴等に対する「憎悪」でこの赤ん坊を育て上げてやるんだ、と。 お君が首になったというので、メリヤス工場の若い職工たちは寄々協議をしていた。お君の夫がこ・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・それは彼奴等に対して、この上もないブベツ弾になるのだ。殊にコンクリートの壁はそれを又一層高々と響きかえらした。 しばらく経ってから気付いたことだが、早くから来ているどの同志も、屁ばかりでなく、自分独特のくさめとせきをちアんと持っていて、・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・『殴られる彼奴』とはあなたにとって薄笑いにすぎない。あなたがあやつる人生切り紙細工は大南北のものの大芝居の如く血をしたたらせている。あまり、煩さい無駄口はききますまい。ヴァレリイが俗っぽくみえるのはあなたの『逆行』『ダス・ゲマイネ』読後感で・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・あの一段高い米の叺の積み荷の上に突っ立っているのが彼奴だ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站まで乗せていってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩兵が車に乗るという法があるかとどなった。病気だ、ご覧の通りの病気で、脚気をわずら・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・すると爺さんは逃げ後れたまま立っている人たちへ面当がましく、「彼奴らア人間はお飯喰わねえでも生きてるもんだと思っていやがらア。昼鳶の持逃野郎奴。」なぞと当意即妙の毒舌を振って人々を笑わせるかと思うと罪のない子供が知らず知らずに前の方へ押出て・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫