・・・その後で、良吉はさも名残惜しそうにして、力蔵の後ろ姿を見送っていました。 良吉の住んでいる家はあばら屋でありました。そして、良吉は床の中に入ってから、昼間見たオルゴールや、飛行機のことなどが心の目からとれないで、それを思い出して天じょう・・・ 小川未明 「星の世界から」
・・・ 私はすぐまた踊りの群といっしょに立ち去って行った文子の後ろ姿を見送りながら、つくづく夜店出しがいやになったばかりか、何となく文子のいる大阪にいたたまれぬ気がしました。極端から極端へと走りやすい私の気持は、やがて私を大阪の外へ追いやりま・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・かあいい男を新橋まで送ったのは、今から思うと滑稽だが、かあいそうだ、それでなくてあの気の抜けたような樋口がますますぼんやりして青くなって、鸚鵡のかごといっしょに人車に乗って、あの薄ぎたない門を出てゆく後ろ姿は、まだ僕の目にちらついている。」・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・自分は日あたりを避けて楢林の中へと入り、下草を敷いて腰を下ろし、わが年少画家の後ろ姿を木立ちの隙からながめながら、煙草に火をつけた。 小山は黙って描く、自分は黙って煙草をふかす、四囲は寂然として人声を聞かない。自分は懐から詩集を取り出し・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 石井翁は取り残されて茫然と河田翁の後ろ姿を見送っていた。 河田翁が延び上がって遠くまで見回したのは巡査がこわかったのだ。そこで翁と巡査とすれ違った時に、河田翁は急に帽子に手をかけて礼をした。石井翁は見ていてその意味がわからなかった・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・それぎりで客へは何の挨拶もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫が厨房の方から来て、そッと主人の高い膝の上にはい上がって丸くなった。主人はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱の方・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 今日もそこに来て耳をてたが、電車の来たような気勢もないので、同じ歩調ですたすたと歩いていったが、高い線路に突き当たって曲がる角で、ふと栗梅の縮緬の羽織をぞろりと着た恰好の好い庇髪の女の後ろ姿を見た。鶯色のリボン、繻珍の鼻緒、おろし立て・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 自分の席から二つ三つ前方の席に、向こうをむいて腰かけている老人の後ろ姿が見えていた。だいぶよれよれになった背広を着て、だん袋のようなズボンをはいているようであった。自分より前から来ていたが注文の品が手間どるので少しじりじりしているらし・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・ 廊下に片っ方の眼だけ出すと、深谷が便所のほうへ足音もなく駆けてゆく後ろ姿が見えた。「ハテナ。やっぱり下痢かな」 と思ううちに、果たして深谷は便所に入った。が安岡は作りつけられたように、片っ方の眼だけで便所の入り口を見張り続けた・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・清らかに澄んだ湯に脚をひたして湯槽の端に腰をかけている女の、肉付きのいい肌の白い後ろ姿が、ほの白い湯気の内にほんのりと浮き出ている。その融けても行きそうな体は、裸に釣り合うように古風に結ばれた髪の黒さで、急にハッキリとした形に結晶する。湯の・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫