・・・ 杖を径に突立て突立て、辿々しく下闇を蠢いて下りて、城の方へ去るかと思えば、のろく後退をしながら、茶店に向って、吻と、立直って一息吐く。 紫玉の眉の顰む時、五間ばかり軒を離れた、そこで早や、此方へぐったりと叩頭をする。 知らない・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・馬はずるずる後退しそうになる。石畳の上に爪立てた蹄のうらがきらりと光って、口の泡が白い。痩せた肩に湯気が立つ。ピシ、ピシと敲かれ、悲鳴をあげ、空を噛みながら、やっと渡ることができる。それまでの苦労は実に大変だ。彼は見ていて胸が痛む。轍の音が・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・ああ、溜息ごとに人は百歩ずつ後退する、とか。私はこのごろ、たいへん酷烈な結論を一つ発見いたしました。貴族はエゴイストだ、という動かぬ結論でございます。いいえ、なんにもおっしゃいますな。やっぱり、ご自分おひとりのことしか考えて居りませぬ。ご自・・・ 太宰治 「古典風」
・・・この砂丘は、年々すこしずつ海に呑まれて、後退しているのだそうです。滅亡の風景であります。「これあいい。忘れ得ぬ思い出の一つだ。」私は、きざな事を言いました。 私たちは海と別れて、新潟のまちのほうへ歩いて行きました。いつのまにやら、背・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・これに反して年々に新しく書き改め新事実や新学説を追加しても、教師自身が、漸次に後退しつつある場合も考えられない事はない。この二つの場合のどちらが蓄音機のレコードに適するかを一般的概念的に論断するのは困難ではあるまいか。 蓄音機が完成した・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・そういう常識にも立ってみれば、本質上は後退だってもさまざまに動きを示している姿はあり得る。そんな動きをもこめて、とにかく動いているのである。 二十五年前の第一欧州戦争を、日本の一般社会は間接に小局限でしか経験しなかったから、今日の文学が・・・ 宮本百合子 「今日の文学の諸相」
・・・プロレタリア文学運動の後退は、とりも直さず日本の全住民の思想的自由の限界の縮小である。過去数年間、新しき文学と作家の社会性拡大のために先頭に立っていたプロレタリア作家たちが、続々とあとへすさって来て、林氏のように自身の文学の本質を我から切々・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・文学の領域でもそれは当然明瞭なわけなのだが、十数年前にプロレタリア文学としての運動があったから、今日民主主義の文学というと、後退したような感じを与える。文学の前線が時によって出たり引っこんだりしているようにも思われる。しかし、それはけっして・・・ 宮本百合子 「作家の経験」
・・・文化における極端な民族尊重の傾向と結びついているものであって、日本文学の発展の歴史において明瞭に後退と反動とを示しているものなのである。科学の分野で、統制の問題が論議されはじめたのとほぼ時を等しくしている。この時、木々高太郎氏の理性と現実の・・・ 宮本百合子 「作家のみた科学者の文学的活動」
・・・内部の運営が民主的でないこと、プログラム編成が低俗であり昨今は労働、農民、報道、子供のための放送にはっきり民主化からの後退が示されてきていることが世論にのぼっている。しかし、こんど上程された法案のように保守政党が占める両院の承認を経た五年間・・・ 宮本百合子 「三年たった今日」
出典:青空文庫