・・・これは勿論唯事ではない。お君さんはあのカッフェを解傭される事になったのであろうか。さもなければお松さんのいじめ方が一層悪辣になったのであろうか。あるいはまたさもなければ齲歯でも痛み出して来たのであろうか。いや、お君さんの心を支配しているのは・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・若しも上田の進ちゃんまでやられたとすれば、事件としても只事でない事が分るし、又若しまだやって来ていないとすれば、始末しなければならない事もあるだろうし、直ぐ知らせなければならない人にも、知らせることが出来ると思ったからである。争われないもの・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・無用の徒事である。悪事である。しかし世に徒事の多きは啻にこの事のみではない。酒を買って酔を催すのも徒事である。酔うて人を罵るに至っては悪事である。烟草を喫するのもまた徒事。書を購って読まざるもまた徒事である。読んで後記憶せざればこれもまた徒・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・室の中なる人々は顔と顔を見合わす。只事ではない。 五 舟「かぶとに巻ける絹の色に、槍突き合わす敵の目も覚むべし。ランスロットはその日の試合に、二十余人の騎士を仆して、引き挙ぐる間際に始めてわが名をなのる。驚く人の醒め・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そうしてその科学界を組織する学者の研究と発見とに対しては、その比較的価値所か、全く自家の着衣喫飯と交渉のない、徒事の如く見傚して来た。そうして学士会院の表彰に驚ろいて、急に木村氏をえらく吹聴し始めた。吹聴の程度が木村氏の偉さと比例するとして・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・戦は事実であると思案の臍を堅めたのは昨日や今日の事ではない。只事実に相違ないと思い定めた戦いが、起らんとして起らぬ為め、であれかしと願う夢の思いは却って「事実になる」の念を抑ゆる事もあったのであろう。一年は三百六十五日、過ぐるは束の間である・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ いかな庄太郎でも、あんまり呑気過ぎる。只事じゃ無かろうと云って、親類や友達が騒ぎ出していると、七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。そこで大勢寄ってたかって、庄さんどこへ行っていたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・若輩は徒事に趨るもの多し。願くば余を其道より引き戻し給へ。余は彼女を恋せず。彼女は依然として余の愛らしき妹なり。愚者よ何の涙ぞ。」「頭痛堪へ難し。今日又余は彼女に遭ひぬ。然り彼女と共に上野を歩しぬ。余は彼女に遭はざらん事を希ふ。余の頭は・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ 私のいら立ちが激しくなるにつれて家中のざわめきは益々ひどくなって、台所で女中が弾んだ声で、「富田さん富田さんと叫ぶのに混ってバタバタ云う草履の音や氷を欠く響きが只事ならず段々更けて行く夜の空気を乱して聞えて来た。 ・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・碌々として、只事なからんことばかりを期し、親の財産の番でもして生涯を終る者ならばいざ知らず、一代で名をなす男女の生涯は、その人たちの属す社会層によって或る基本的な違いはあるが、それぞれの意味で、強烈な生活力の横溢である。時代と、時代によって・・・ 宮本百合子 「花のたより」
出典:青空文庫