・・・現にまた同じ新聞の記者はやはり午後八時前後、黄塵を沾した雨の中に帽子をかぶらぬ男が一人、石人石馬の列をなした十三陵の大道を走って行ったことを報じている。すると半三郎は××胡同の社宅の玄関を飛び出した後、全然どこへどうしたか、判然しないと言わ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・長江に臨んだ古金陵の地に、王生と云う青年があった。生れつき才力が豊な上に、容貌もまた美しい。何でも奇俊王家郎と称されたと云うから、その風采想うべしである。しかも年は二十になったが、妻はまだ娶っていない。家は門地も正しいし、親譲りの資産も相当・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・蘭陵の酒を買わせるやら、桂州の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂えるやら、その贅沢を一々書いていては、・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿陵余子」と云う言葉を思い出した。それは邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐して帰郷したと云う「韓非子」中の青年だった。今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」である・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・――賢人の釣を垂れしは、厳陵瀬の河の水。月影ながらもる夏は、山田の筧の水とかや。――…… 十一 翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒くなって人が湧いた。煉瓦を羽蟻で包んだような凄じ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・男女の痴話の傍杖より、今は、高き天、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、「何をする、何をするんだ。」 草の径ももどかしい。畦ともいわず、刈田と言わず、真直に突切って、颯と寄った。 この勢・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 不幸、短命にして病死しても、正岡子規君や清沢満之君のごとく、餓しても伯夷や杜少陵のごとく、凍死しても深草少将のごとく、溺死しても佐久間艇長のごとく、焚死しても快川国師のごとく、震死しても藤田東湖のごとくであれば、不自然の死も、かえって・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 不幸短命にして病死しても、正岡子規君や清沢満之君の如く、餓死しても伯夷や杜少陵の如く、凍死しても深艸少将の如く、溺死しても佐久間艇長の如く、焚死しても快川国師の如く、震死しても藤田東湖の如くならば、不自然の死も却って感嘆すべきではない・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・そうして七十歳にでもなったらアルプスの奥の武陵の山奥に何々会館、サロン何とかいったような陽気な仙境に桃源の春を探って不老の霊泉をくむことにしよう。 八歳の時に始まった自分の「銀座の幻影」のフィルムははたしていつまで続くかこればかりはだれ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・〔欄外に〕 新聞に天皇が多摩陵へ御出かけのときの車窓に立った憂鬱な写真を見た すると今度は自分が立って喋って居る。「私は眠れません、世界に思想がありすぎるのです、 まだ字を知らなかった時から人間はこんな形で思想を・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
出典:青空文庫