・・・ 撃柝の音は坂や邸の多い堯の家のあたりを、微妙に変わってゆく反響の工合で、それが通ってゆく先ざきを髣髴させた。肺の軋む音だと思っていた杳かな犬の遠吠え。――堯には夜番が見える。母の寝姿が見える。もっともっと陰鬱な心の底で彼はまた呟く。・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・と題した短編の冒頭にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林の趣は同じことである。自分・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・仏教の開教偈に、微妙甚深無上の法は、百千万劫にも遇ひ難し。我れ今見聞して受持するを得たり。願はくは如来の真実義を解かん。とあるのはこの心である。「あいがたき法」「あいがたき師」という敬虔の心をもっと現代の読書青年は持たねばな・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・造化のたくみの微妙さにはただ随喜するよりない。 お河童にして、琴の爪函を抱えて通った童女が、やがて乙女となり、恋になやみ、妻となり、母となって、満ち足りて、ついには輝く銀髪となって、あの高砂の媼と翁のように、安らかに、自然に、天命にゆだ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・合気の術は剣客武芸者等の我が神威を以て敵の意気を摧くので、鍛錬した我が気の冴を微妙の機によって敵に徹するのである。正木の気合の談を考えて、それが如何なるものかを猜することが出来る。魔法の類ではない。妖術幻術というはただ字面の通りである。しか・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・だから、鼻の穴が微妙にムズ痒くなって、今くさめが出るのだなと分ると、それを実に大切にするんだ。 ――俺もしばらくして、せきとくさめに自分のスタイルを持つことに成功した。 オン、ア、ラ、ハ、シャ、ナウ 高い窓から入・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・その男が、或る微妙な罪名のもとに、牢へいれられた。牢へはいっても、身だしなみがよかった。男は、左肺を少し悪くしていた。 検事は、男を、病気も重いことだし、不起訴にしてやってもいいと思っていたらしい。男は、それを見抜いていた。一日、男を呼・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・ ばかに自分の事ばかり書きすぎたようにも思うが、しかし、作家が他の作家の作品の解説をするに当り、殊にその作家同士が、ほとんど親戚同士みたいな近い交際をしている場合、甚だ微妙な、それこそ飛石伝いにひょいひょい飛んで、庭のやわらかな苔を踏ま・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・それで、盲者が、話し声の反響で室の広さを判断しうるような微妙な音色の差別を再現することはまだできないのであるが、それにもかかわらず適当な雑音の適当な插入が画面の空間の特性を強調する事は驚くべきものである。通り過ぎる汽車の音の強まり弱まり消え・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・それをそうさせない微妙な呼吸はただこの際における「固有な自然のリズム」の正確の把握によってのみ得られるのである。 上手と下手の相違はだいたい何事でも言葉では言い現わせないところにあり、メーターで測れないところにあるのが通例であるが、これ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫