・・・男は、甘えるように微笑みながらていねいにお辞儀をして、しずかに帰っていった。残された名刺には、住所はなくただ木下青扇とだけ平字で印刷され、その文字の右肩には、自由天才流書道教授とペンで小汚く書き添えられていた。僕は他意なく失笑した。翌る朝、・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・私は殴られた。右のこぶしが横からぐんと飛んで来たので、私は首筋を素早くすくめた。十間ほどふっとんだ。私の白線の帽子が身がわりになって呉れたのである。私は微笑みつつ、わざとゆっくりその帽子を拾いに歩きはじめた。毎日毎日のみぞれのために、道はと・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ そうおっしゃって、優しく微笑みました。 お客たちの来ないうちにと、私はその日にもう荷作りをはじめて、それから私もとにかく奥さまの里の福島までお伴して行ったほうがよいと考えましたので、切符を二枚買い入れ、それから三日目、奥さまも、よ・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・千代は鏡の中でぱっと眼を移し、重って写っている彼の顔に向って華やかに微笑みかけそして、ゆっくりどきながら云った。「まあ、御免遊ばせ」 そしてすっと開きから出て行った。 又、彼女は、食事の前後以外には、どんなに食事部屋でがたがた物・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 二人は知らないうちに、眼一杯に涙をためながら、楽しく仕合せな心に成って微笑み合いました。 まあ、真個にお互によく解り合って、よいところを信じ合った時ほど、人の心が晴々と空のように成ることはありませんでしょう。 政子さんと芳子さ・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・ 只一度の微笑みなり一滴の涙なりを只一度とのこされた姉は希うのである。 思い深く沈んだ夜は私の吐く息、引く息毎に育って糸蝋のかげの我心の奥深くゆらめくのも今日で二夜とはなった。 明けの夜は名のみを止めた御霊代を守って同じ夜の色に・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ だってお祖母様――まだほんとうに覚めきらないんですもの こんな事を云ってかるい声で笑うのが聞えると仙二は誘われる様に微笑みながら藻の花の茎を前歯でかんで一つ処を見つめた目はしきりに間ばたきをして居た。 かなりの長い時間が立・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・ ふと、あたたかく微笑みながら元気な彼女がいった。 ――今は、彼女の父親と田舎に暮しているけれども…… 後の窓からぱっとさし込む明るい光が、いろんな色の髪の毛を照している。なかにたった一つ、黒い黒い髪がある。それは日本女ので・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ けれ共M氏はかるく微笑みながら盛な男達の話に耳をかたむけて居た。 その様子はいかにもやさしかった。 そして又いかにも澄んで居た。 檜の林にかこまれた大神官の淋しい香りの満ち満ちた神殿に白衣の身を伏せて神を拝すのはこの人でな・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ と、翁は微笑みながら、若い学士の顔を見て云った。「そうですね。診断は僕もお上さんに同意します。両側下顎脱臼です。昨夜脱臼したのなら、直ぐに整復が出来る見込です」「遣って御覧」 花房は佐藤にガアゼを持って来させて、両手の拇指・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫