・・・私はまだこの女の微笑した顔を見ていない、とふと思った。 そして、私もこの女の前で一度も微笑したことはない……。 女はますます仮面のような顔になった。「ほんまに、あの人くらい下劣な人はあれしませんわ」「そうですかね。そんな下劣・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・Kは彼の顔を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、「君の処へも山本山が行ったろうね?」と訊いた。「あ貰ったよ。そう/\、君へお礼を云わにゃならんのだっけな」「お礼はいゝが、それで別段異状はなかったかね?」「異状? ……」彼に・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 夫人は微笑とともに振り向いた。そしてそれを私の方へ抛って寄来した。取りあげて見ると、やはり猫の手なのである。「いったい、これ、どうしたの!」 訊きながら私は、今日はいつもの仔猫がいないことや、その前足がどうやらその猫のものらし・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 彼は頭を上げては水車を見、また画板に向う、そして折り折りさも愉快らしい微笑を頬に浮べていた。彼が微笑するごとに、自分も我知らず微笑せざるを得なかった。 そうする中に、志村は突然起ち上がって、その拍子に自分の方を向いた、そして何にも・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・薄荷のようにひりひりする唇が微笑している。 彼は、嫉妬と憤怒が胸に爆発した。大隊を指揮する、取っておきのどら声で怒なりつけようとした。その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。 が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・そして他の若い無邪気な同窓生から大噐晩成先生などという諢名、それは年齢の相違と年寄じみた態度とから与えられた諢名を、臆病臭い微笑でもって甘受しつつ、平然として独自一個の地歩を占めつつ在学した。実際大噐晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・ こうおげんの方から言うと、熊吉は、額のところに手をあてて、いくらか安心したような微笑を見せた。「俺にそんなところへ入れという話なら、真平」とまたおげんが言った。「俺はそんな病人ではないで。何だかそんなところへ行くと余計に悪くなるよ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ この群の跡から付いて来た老人は今の青年の叫声を聞くや否や、例のしっかりした、早い歩き付きで二足進んで、日に焼けた顔に思い切った幅広な微笑を見せて、人の好げた青い目を面白げに、さも人を信ずるらしく光らせて、青年の前に来て、その顔を下から・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・深夜、裸形で鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻して、うっとり眼をつぶってみたり、いちど、鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱のあまり、自殺を計ったことが・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・それでも竜騎兵中尉は折々文士のいる卓に来て、余り気も附けずに話を聞いて、微笑して、コニャックをもう一杯呑んで帰ることがある。 これが銀行員チルナウエルの大事件に出逢う因縁になったのである。チルナウエルはいつか文士卓の隅に据わることを許さ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫