・・・私は昔の日本の蘭学者のエレキテルなどというような言葉を思い出して覚えず微笑せずにはいられなかった。それから若干の単語の正しい発音を教えてやったりしたが、しかしこれはかえって教えたり正したりしないでそのままに承認してやった方がよいのではないか・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・そう言って微笑していた。 もっと快活な女であったように、私は想像していた。もちろん憂鬱ではなかったけれど、若い女のもっている自由な感情は、いくらか虐げられているらしく見えた。姙娠という生理的の原因もあったかもしれなかった。 桂三郎は・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・踊子の洋装と化粧の仕方を見ても、更に嫌悪を催す様子もなく、かえって老年のわたくしがいつも感じているような興味を、同じように感じているものらしく、それとなくわたくしと顔を見合せるたびたび、微笑を漏したいのを互に強いて耐えるような風にも見られる・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかと云ったことがある。余はそ・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・ラクシャンの若い第四子が微笑って兄をなだめ出す。「大兄さん、あんまり憤らないで下さいよ。イーハトブさんが向うの空で、又笑っていますよ。」それからこんどは低くつぶやく。「あんな銀の冠を僕もほしいなあ。」ラクシャンの狂暴・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・本当に嬉しいこと、おかしいこと、楽しいことが一つもないのに、日本人はいつもぼんやりした微笑を、顔の上に漂べている、と、不思議に気味わるく思うのです。 言葉の通じない外国人に、こちらのおだやかな気持を通じさせようとするのかもしれません。け・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・ 微笑の影が木村の顔を掠めて過ぎた。そしてあの用箪笥の上から、当分脚本は降りないのだと、心の中で思った。昔の木村なら、「あれはもう見ない事にしました」なんぞと云って、電話で喧嘩を買ったのである。今は大分おとなしくなっているが、彼れの微笑・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・それから急にその顔に微笑の影が浮かんで、口から「ユリア、ユリア」と二声の叫が洩れた。ユリアとは女房の名である。ツァウォツキイは小刀の柄を両手で握って我と我胸に衝き挿した。ツァウォツキイはすぐに死んで、ユリアの名をまだ脣の上に留めながら、ポッ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・だが、ナポレオンにとっては、ロシアは彼の愛するルイザの微笑を見んがためばかりにさえも、征服せらるべき国であった。左様に彼はルイザを愛し出した。彼が彼女を愛すれば愛するほど、彼の何よりも恐れ始めたことは、この新しい崇高優美なハプスブルグの娘に・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ おばさんは意味ありげな微笑をした。そして云うには、ことしの五月一日に、エルリングは町に手紙をよこして、もう別荘の面白い季節が過ぎてしまって、そろそろお前さんや、避暑客の群が来られるだろうと思うと、ぞっとすると云ったと云うのである。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫