・・・この以後自分と志村は全く仲が善くなり、自分は心から志村の天才に服し、志村もまた元来が温順しい少年であるから、自分をまたなき朋友として親しんでくれた。二人で画板を携え野山を写生して歩いたことも幾度か知れない。 間もなく自分も志村も中学校に・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ その言葉が、朗らかに、快活に、心から、歓迎しているように、兵卒達には感じられた。 兵卒は、殆んど露西亜語が分らなかった。けれども、そのひびきで、自分達を歓迎していることを、捷く見てとった。 晩に、炊事場の仕事がすむと、上官に気・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・そして自分の出来るだけ忠実に働いて、叔父が我が挙動を悦んでくれるのを見て自分も心から喜ぶ余りに、叔母の酷さをさえ忘れるほどであった。それで二度までも雁坂越をしようとした事はあったのであるが、今日まで噫にも出さずにいたのであった。 ただよ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・龍介は女を失ったということより、今はその侮辱に堪えられなかった。心から泣けた。――何回も何回もお預けをしておいてしまいにあかんべい、だ! 龍介はこの事以来自分に疲れてきた。すべて自信がもてない。ものをハッキリ決めれない、なぜか、そうきめると・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ 子安は心から出た声で快活に笑った。「まるで、ゴツゴツした岩みたような連中ばかりだ」と彼は附添した。「しかし、君、その岩が好くなって来るから不思議だよ」と高瀬は戯れて言った。 子安は先へ別れて行った。鉄道の踏切を越した高い石・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・と落ちつきなく部屋をうろつき、「あいつはそんな無茶なことをやらかして、おれの声名に傷つけ、心からの復讐をしようとしている。変だと思っていたのだ。ゆうべ、おれに、いつにないやさしい口調で、あなたも今月はずいぶん、お仕事をなさいましたし、気休め・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・そんな時心から笑う。それで定連に可哀がられている。こう云う社会では「話を受ける」人物もいなくてはならないのである。 こんな風で何年か立った。 そのうちある時、いつも話の受け手にばかりなっていた、このチルナウエルが忽ち話題になった。多・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・美しい物の影が次第に心から消えて行く。金がほしくなる。かつて二階から見下ろしたジュセッポにいつの間にか似てくるようだ。堕落か、向上か。どちだか分らない。三月十四日 ペンで細字で考え考え書いてしまったのを懐にして表のポストに入れに出た・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・彼女はそんなことを考えながらも、叔母が択んでくれた自分の運命に、心から満足しようとしているらしかった。「ここの経済は、それでもこのごろは桂さんの収入でやっていけるのかね」私はきいた。「まあそうや」雪江は口のうちで答えていた。「お・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・わたくしは栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆に居残っている事を心から祈っている。 大道具の頭の外に、浅草では作曲家S氏とわたくしの作った歌劇『葛飾情話』演奏の際、ピアノをひいていた人も死んだそうである。その家は公園から田原町の方へ抜け・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫