・・・杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。 すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄じく雷が鳴り出しました。いや、雷ばかりで・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。 そのまたあくる日も、日が暮れるまで待っていたが、来なかった。もうお座敷に行ったろうからだめだと、――そして、井筒屋ははやらないが、井筒屋の独り芸者は外へ出てはやりッ子・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ お光も苦笑いをして、「でも、全くあの時は先方の口振りがいかにも急ぎのようでしたものですから……いえ、どッちにしてもほかのこととは違いますし、阿母さんの方だって心待ちにしておいでのことは分ってますから、先方が何とも言って来ないからって、・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・その続きを彼は心待ちに寝ていた。 しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。 虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。 城の本丸に電・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・近所の者は分けて呉れることゝ心待ちに待っていたが、四五日しても挨拶がない。買って来たのは玄米らしく、精米所へ搗きに出しているのが目につく。ある一人の女が婉曲に、自分もその村へ買い出しに行こうと思うが売って呉れるだろうかとS女にたずねてみた。・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・そうなると、私は馬鹿で毎日々々警察からの知らせを心待ちに待つようになりました。 スパイが時々訪ねてくると、私は一々家の中に上げて、お茶をすゝめながら、それとなしに娘のことをきくのですが、少しも分りません。――すると、八ヵ月目かにです・・・ 小林多喜二 「疵」
私は遊ぶ事が何よりも好きなので、家で仕事をしていながらも、友あり遠方より来るのをいつもひそかに心待ちにしている状態で、玄関が、がらっとあくと眉をひそめ、口をゆがめて、けれども実は胸をおどらせ、書きかけの原稿用紙をさっそく取・・・ 太宰治 「朝」
・・・爵の次男で、有名な詩人だという事に変りはないので、こんな、うちの婆まで、いいとしをして、秋ちゃんと競争してのぼせ上って、さすがに育ちのいいお方はどこか違っていらっしゃる、なんて言って大谷さんのおいでを心待ちにしているていたらくなんですから、・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 新井白石は、シロオテとの会見を心待ちにしていた。白石は言葉について心配をした。とりわけ、地名や人名または切支丹の教法上の術語などには、きっとなやまされるであろうと考えた。白石は、江戸小日向にある切支丹屋敷から蛮語に関する文献を取り・・・ 太宰治 「地球図」
・・・自分だけ早くから寝てもなかなか寝付かれないので、もう帰るかもう帰るかと心待ちにしていると自然と表通りを去来する人力車の音が気になる。凍結した霜夜の街を駆け行く人力車の車輪の音――またゴム輪のはまっていなかった車輪が凍てた夜の土と砂利を噛む音・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
出典:青空文庫