・・・その時になって私はまた水の中に飛び込んで行きたいような心持ちになりました。大事な妹を置きっぱなしにして来たのがたまらなく悲しくなりました。 その時Mが遥かむこうから一人の若い男の袖を引ぱってこっちに走って来ました。私はそれを見ると何もか・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ フレンチは水落を圧されるような心持がする。それで息遣がせつなくなって、神経が刺戟せられる。「うん。すぐだ。」不機嫌な返事をして、神経の興奮を隠そうとしている。さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・それは今まで自分の良い人だと思った人が、自分に種々迷惑をかけたり、自分を侮辱したりした事があると思い出したのだ、それで心持が悪くなって訳もなく腹を立って来た。シュッチュカは次第に側へ寄って来た。その時百姓は穿いて居る重い長靴を挙げて、犬の腋・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・私は今論者の心持だけは充分了解することができる。しかしすでに国家が今日まで我々の敵ではなかった以上、また自然主義という言葉の内容たる思想の中心がどこにあるか解らない状態にある以上、何を標準として我々はしかく軽々しく不徹底呼ばわりをすることが・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲が広く、破れてはいるが、筵か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣っているのであろう、身を忍ぶのは誂えたようであるが。・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・わりあいに顔のはば広く、目の細いところ、土佐絵などによく見る古代女房の顔をほんものに見る心持ちがした。富士のふもと野の霜枯れをたずねてきて、さびしい宿屋に天平式美人を見る、おおいにゆかいであった。 娘は、お中食のしたくいたしましょうかと・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ 友人は右の手に受けて、言葉を継ぎ、「あの時の心持ちと云うたら、まだ気が落ち付いとらなんだんやさかい、今にも敵が追い付いて来そうで、怖いばかりのまぼろしを見とったのや。後で看護婦の話を聴いたら、大石軍曹までを敵に思たんであろ、『大石が来・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・小さい時から長袖が志望であったというから、あるいは画師となって立派に門戸を張る心持がまるきりなかったとも限らないが、その頃は淡島屋も繁昌していたし、椿岳の兄の伊藤八兵衛は飛ぶ鳥を落す勢いであったから、画を生活のたつきとする目的よりはやはり金・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・女房はこの出来事に体を縛り付けられて、手足も動かされなくなっているように、冷淡な心持をして、時の立つのを待っていた。そしてこの間に相手の女学生の体からは血が流れて出てしまうはずだと思っていた。 夕方になって女房は草原で起き上がった。体の・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ しかし、もはや、鬼のような心持ちになってしまった年寄り夫婦は、なんといっても、娘のいうことを聞き入れませんでした。 娘は、へやのうちに閉じこもって、いっしんにろうそくの絵を描いていました。しかし、年寄り夫婦はそれを見ても、いじらし・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
出典:青空文庫