・・・芸術家は、めったに泣かないけれども、ひそかに心臓を破って居ります。人の悲劇を目前にして、目が、耳が、手が冷いけれども、胸中の血は、再び旧にかえらぬ程に激しく騒いでいます。芸術家は、決してサタンではありません。かの女房の卑劣な亭主も、こう考え・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・例えば植物の生長の模様、動物の心臓の鼓動、昆虫の羽の運動の仕方などがそうである。それよりも一層重要だと思うのは、万人の知っているべきはずの主要な工業経営の状況をフィルムで紹介する事である。動力工場の成り立ち、機関車、新聞紙、書籍、色刷挿画は・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・その上心臓が弱いので、水を汲みこむのが大仕事であった。その日は、辰之助が昨夜水を汲みこんでいってくれた。お絹は炭火で、それを沸かした。 道太はやがて風呂場へ行った。もう電燈がついていた。「どんなです、沸いていましょう。少し少ないけれ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・――あの音はいやに伸びたり縮んだりするなと考えながら歩行くと、自分の心臓の鼓動も鐘の波のうねりと共に伸びたり縮んだりするように感ぜられる。しまいには鐘の音にわが呼吸を合せたくなる。今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・私の心臓は私よりも慌てていた。ひどく殴りつけられた後のように、頭や、手足の関節が痛かった。 私はそろそろ近づいた。一歩々々臭気が甚しく鼻を打った。矢っ張りそれは死体だった。そして極めて微かに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿な・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・湖は緑青よりももっと古びその青さは私の心臓まで冷たくしました。 ふと私は私の前に三人の天の子供らを見ました。それはみな霜を織ったような羅をつけすきとおる沓をはき私の前の水際に立ってしきりに東の空をのぞみ太陽の昇るのを待っているようでした・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・アア、どうしていいやら、私は心臓ばかりのものになったのじゃあるまいか―― かがやかしいシリンクス――、私の命の――何とか云うて下され何とでも思うままに……精女第三の精霊 だまってござるナ、何故じゃ、私のこのやぶけそうに波打って居・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・瑞西にいるうちに、Bern で心臓病になって死んだ。それからクロポトキンだが、あれは Smolensk 公爵の息子に生れて、小さい時は宮中で舎人を勤めていた。それからカザアキ騎兵の士官になってシベリアへ遣られて、五年間在勤していて、満州まで・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・すると、乞食は焦点の三に分った眼差しで秋三を斜めに見上げながら、「俺は安次や。心臓をやられてさ。うん、ひどい目にあった。」と彼から云った。 秋三は自分の子供時代に見た村相撲の場景を真先に思い浮かべた。それは、負けても賞金の貰える勝負・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 私は心臓が変調を来たしたような心持ちでとりとめもなくいろいろな事を思い続けました。――しかしこれだけなら別にあなたに訴える必要はないのです。あなたに聞いていただかなければならない事は、その後一時間ばかりして起こりました。それは何でもな・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫