・・・それも己の憎む相手を殺すのだったら、己は何もこんなに心苦しい思いをしなくてもすんだのだが、己は今夜、己の憎んでいない男を殺さなければならない。 己はあの男を以前から見知っている。渡左衛門尉と云う名は、今度の事に就いて知ったのだが、男にし・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・ 学校へゆくは固より僕の願い、十日や二十日早くとも遅くともそれに仔細はないが、この場合しかも今夜言渡があって見ると、二人は既に罪を犯したものと定められての仕置であるから、民子は勿論僕に取ってもすこぶる心苦しい処がある。実際二人はそれほどに堕・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・二日あなたのお傍で遊ばせていただき、あなたに、あまり宿賃のお世話になるのも心苦しい事でしたので、私だけ先に、失礼して帰京いたしましたが、あなたは、あれから、信州のほうへお廻りになるとか、おっしゃって居られましたけれど、もうそろそろ涼しくなっ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・これは私の戸籍名なのであるが、下手に仮名を用いて、うっかり偶然、実在の人の名に似ていたりして、そのひとに迷惑をかけるのも心苦しいから、そのような誤解の起らぬよう、私の戸籍名を提供するのである。 津島の勤め先は、どこだっていい。所謂お役所・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・君に酒をのむことを教えたのは僕ではないかと思いますが、万一にも君が酒で失敗したなら僕の責任のような気がして僕は甚だ心苦しいだろう。すっかり健康になるまで酒は止したまえ。もっとも酒について僕は人に何も言う資格はない。君の自重をうながすだけのこ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・どれ、どれ、親切を無にするのも心苦しい、ええと、こう行って、こうからみ附けっていうわけか、ああ、実に不細工な棚である。からみ附かせないように出来ている。意味ないよ。僕は、不仕合わせなへちまかも知れぬ。」 薔薇と、ねぎ。「ここ・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・どうも、辞書を引いてたったいま知ったような事を、自分の知識みたいにして得々として語るというのは、心苦しい事である。いやになる。けれども私は、自分がサタンでないという事を実証する為には、いやでも、もう少し言わなければならぬ。要するにサタンとい・・・ 太宰治 「誰」
・・・もう私の母も、とうの昔にあの世に旅立ってしまいまして、仏に対してとやかくうらみを申し述べるのは私としても、たいへん心苦しい事ですが、忘れも致しません、私が十歳くらいで、いまのあの弟が五歳くらいの頃に、私はよそから犬の子を一匹もらって来て少し・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・ 金ばなれの悪い姑から出してもらう事は、いかにも心苦しいと云った。「そらなあ、 お大尽はんやあらへんさかい辛うおまっしゃろとは思っとりますわな。 けど、あんまりどっせ、 わざと私が病んどる様に云うてなはるんやから。三・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 最初の一瞥で、何とも云えず感じの深い而も充分威に満ちた先生の為人を感じた私は、歴史の試験で、年代などを忘れ変な答案を出すと、不思議に心苦しい思いをした。 先生が、試験の点どころか、恐らく学校の成績にさえ、拘泥して居られないことは解・・・ 宮本百合子 「弟子の心」
出典:青空文庫