・・・平素は余りに単白で色彩の乏しきに苦しむ白木造りの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲と一致して日本の女の最も刺戟的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻の細帯にあらい浴衣の立膝して湯上りの薄化粧・・・ 永井荷風 「夏の町」
一 四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くという当もない。船でも車でも、動いているものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・現に事が纏るという実用上の言葉が人間として彼我打ち解けた非実用の快感状態から出立しなければならないのでも分りましょう。こういうと私が酒や女をむやみに推薦するようでちょっとおかしいが、私の申上げる主意はたとい弊害の多い酒や女や待合などが交際の・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・すかないものがあるにしても、自分のすきでない共産党や共産党員がやっつけられるという小気味よさにだまされて、本質的には、いい気味がっている本人自身の市民的自由や生活権をかっぱらわれてしまうような、愚かな快感に浸ることは全く人民的自殺です。自分・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・自分が感じている明るくなさや、ひとも自分も信じがたさを、刺戟し、身ぶるいさせる自虐的な快感でひきつけられているのだと思う。 ここで、再びわたしたちは、文学にふれてゆく機会が偶然であるという事実と、ある文学にひきつけられるモメントの問・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・ 此は、人が快感を以て行なう寛裕と云う態度の中の、或点を考えさせるものではあるまいか、特に愛して居る者の間に於ては。女性と男性との差は、斯う云う心持に於ても何か異っては居ないだろうか。 ○彼等の運命の裡に於て、長・・・ 宮本百合子 「黄銅時代の為」
・・・ 段々、かたくなく文字が流れ出す快感を覚える。何処まで、形式、内容が発達して行くか、 私にとっては、頭のためにも、感情のためにも、よい余技を見出した。 五月一日あらゆるものが、さっと芽ぐみ、何と云う 春だ!・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・それも、或る種の娘さんの性格や感情には一つの快感であるのかもしれないけれども、そこには極めて微妙な女性の被虐的美感への傾倒も感じられなくはない。能の、動きの節約そのものの性質のなかには、明らかに日本の中世の社会生活からもたらされた被虐性、情・・・ 宮本百合子 「今日の生活と文化の問題」
・・・ 渡辺はしばらくなにを思うともなく、なにを見聞くともなく、ただ煙草をのんで、体の快感を覚えていた。 廊下に足音と話し声とがする。戸が開く。渡辺の待っていた人が来たのである。麦藁の大きいアンヌマリイ帽に、珠数飾りをしたのをかぶっている・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・その出て行くときの彼女の礼節を無視した様子には、確に、長らく彼女を虐めた病人と病院とに復讎したかのような快感が、悠々と彼女の肩に現われていた。 六 梅雨期が近づき出すと、ここの花園の心配はこの院内のことばかりでは・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫