・・・ 一歳初夏の頃より、このあたりを徘徊せる、世にも忌わしき乞食僧あり、その何処より来りしやを知らず、忽然黒壁に住める人の眼界に顕れしが、殆ど湿地に蛆を生ずる如く、自然に湧き出でたるやの観ありき。乞食僧はその年紀三十四五なるべし。寸々に裂け・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内を過ぐる頃、馬上にて、 きていたるものまで脱いで売りはてぬ いで試みむはだか道中・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・とうに蟻だ。まだあそこにいやがる。汽車もああなってはおしまいだ。ふと汽車――豊橋を発ってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。万歳の声が長く長く続く。と忽然最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。それは門出の時の泣き顔ではなく、・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 踊子の栄子と大道具の頭の家族が住んでいた家は、商店の賑かにつづいた、いつも昼夜の別なくレコードの流行歌が騒々しく聞える千束町を真直に北へ行き、横町の端れに忽然吉原遊廓の家と灯とが鼻先に見えるあたりの路地裏にあった。或晩舞台で稽古に夜を・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・秋冬の交、深夜夢の中に疎雨斑々として窓を撲つ音を聞き、忽然目をさまして燈火の消えた部屋の中を見廻す時の心持は、木でつくった日本の家に住んで初て知られる風土固有の寂寥と恐怖の思である。孟宗竹の生茂った藪の奥に晩秋の夕陽の烈しくさし込み、小鳥の・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・時代は忽然三、四十年むかしに逆戻りしたような心持をさせたが、そういえば溝の水の流れもせず、泡立ったまま沈滞しているさまも、わたくしには鉄漿溝の埋められなかった昔の吉原を思出させる。 わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。 はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。第三夜 こんな夢を見た。 六つになる子供を負ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 忽然舞台が廻る。見ると塔門の前に一人の女が黒い喪服を着て悄然として立っている。面影は青白く窶れてはいるが、どことなく品格のよい気高い婦人である。やがて錠のきしる音がしてぎいと扉が開くと内から一人の男が出て来て恭しく婦人の前に礼をする。・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・派大江、滔々滾々、正来潯陽江辺、只聴得背後喊叫、火把乱明、吹風胡哨将来、という景色が面白いと感じて、こんな景色が俳句になったら面白かろうと思うた事があるので、川の景色の聯想から、只見蘆葦叢中、悄々地、忽然揺出一隻船来、を描き出したのだ。しか・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・とにかく走者多き時は人は右に走り左に走り球は前に飛び後に飛び局面忽然変化して観者をしてその要を得ざらしむることあり。球戯を観る者は球を観るべし。○ベースボールの防者 防禦の地にある者すなわち遊技場中に立つ者の役目を説明すべし。攫者は常に・・・ 正岡子規 「ベースボール」
出典:青空文庫