・・・そこでいろいろ聞いて見ると、その恋人なるものは、活動写真に映る西洋の曾我の家なんだそうだ。これには、僕も驚いたよ。成程幕の上でには、ちがいない。 ほかの連中は、悪い落だと思ったらしい。中には、「へん、いやにおひゃらかしやがる。」なんて云・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・あそこに歌われた恋人同士は飽くまでも彦星と棚機津女とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天の川の瀬音でした。支那の黄河や揚子江に似た、銀河の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりませ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・と何故かこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易くは我が手に入らない因縁のように、寝覚めにも懸念して、此家へ入るのに肩を聳やかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立ち焦る。 平吉は他処事のように仰向いて、「なあ、これえ。」・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌に遮られ、樹に包まれ、兇漢に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのであ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・白い手の動くにつれて梅のかおりも漂いを打つかと思われる、よそ目に見るとも胸おどりしそうなこの風情を、わが恋人のそれと目に留った時、どんな思いするかは、他人の想像しうる限りでない。 おとよはもう待つ人のくる刻限と思うので、しばしば洗濯の手・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・自分の恋人や、夫についての感想をひとに求める女ほど、私にとってきらいなものはまたと無いのである。露骨にいやな顔をしてみせた。 女はすかされたように、立ち止まって暫らく空を見ていたが、やがてまた歩きだした。「貴方のような鋭い方は、あの・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・八百屋お七の恋人は十七歳であったと聴く。三十面をさげてはあのような美しい狂気じみた恋は出来まいと思われるのである。よしんば恋はしても、薄汚なくなんだか気味が悪いようである。私の知人に今年四十二歳の銀行員がいるが、この人は近頃私に向って「僕は・・・ 織田作之助 「髪」
・・・しかし私には、美しくて若い彼の恋人を奥さんと呼ぶのは何となくふさわしくないような気がされて、とうとう口にすることはできなかった。 私たちは毎日打連れて猿にお米をくれに行ったり、若草山に登ったり、遠い鶯の滝の方までも散歩したりして日を暮し・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・「これはなんだ。恋人でも出来たのか」と、Oはからかいました。恋人というようなあのOの口から出そうにもない言葉で、私は五六年も前の自分を不図思い出しました。それはある娘を対象とした、私の子供らしい然も激しい情熱でした。それの非常な不結果で・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 友達か恋人か家族か、舗道の人はそのほとんどが連れを携えていた。連れのない人間の顔は友達に出会う当てを持っていた。そしてほんとうに連れがなくとも金と健康を持っている人に、この物欲の市場が悪い顔をするはずのものではないのであった。「何・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫