・・・『註文帳』は廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃刀の祟でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰欝な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研屋の店先とその親爺・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・だがそれだけまた友が恋しく、稀れに懐かしい友人と逢った時など、恋人のように嬉しく離れがたい。「常に孤独で居る人間は、稀れに逢う友人との会合を、さながら宴会のように嬉しがる」とニイチェが云ってるのは真理である。つまりよく考えて見れば、僕も決し・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ ――奴は恋人でもできたのだろうか?―― 安岡は考えた。けれども深谷は決して女のことなど考えたり、まして恋などするほど成熟しているようには見えなかった。むしろ彼は発育の不十分な、病身で内気で、たとい女のほうから言い寄られたにしても、・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・私の恋人は破砕器へ石を入れることを仕事にしていました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌りました。 仲間の人たちは、助け出そうとしましたけれど、水の中へ溺れるように、石の下へ私の恋人は沈んで・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・譬えば母とか恋人とかいうようないなくなってから年を経たものがまた帰って来たように、己の心の中に暖いような敬虔なような考が浮んで、己を少年の海に投げ入れる。子供の時、春の日和に立っていて体が浮いて空中を飛ぶようで、際限しも無いあくがれが胸に充・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ある者はただ一人の、神のような恋人とそれに附随して居る火のような恋とばかりなのである。もし世の中に或る者が存して居るとすればその者が家であろうが木であろうが人であろうが皆この恋人のためにまたは我恋のために存して居らねばならぬ。しかるにその物・・・ 正岡子規 「恋」
・・・兄貴の烏も弟をかばう暇がなく、恋人同志もたびたびひどくぶっつかり合います。 いや、ちがいました。 そうじゃありません。 月が出たのです。青いひしげた二十日の月が、東の山から泣いて登ってきたのです。そこで烏の軍隊はもうすっかり安心・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・は、貫一という当時の一高生が、ダイアモンドにつられて彼の愛をすてた恋人お宮を、熱海の海岸で蹴倒す場面を一つのクライマックスとしている。明治も中葉となれば、その官僚主義も学閥も黄金魔力に毒されてゆく。 もし、昔の東大の「よき日よき大学」に・・・ 宮本百合子 「新しいアカデミアを」
・・・彼は秋三に追いついて力限り打ちめしてしまいたかった。恋人との婚姻もこのまま永久に引き延ばしていたかった。そして、安次を最も残忍な方法で放逐して了ったならば、彼は秋三の嘲笑を一瞬にして見返すことが出来るように思われた。七 安次・・・ 横光利一 「南北」
・・・私の愛は恋人が醜いゆえにますます募るのである。 私は絶えずチクチク私の心を刺す執拗な腹の虫を断然押えつけてしまうつもりで、近ごろある製作に従事した。静かな歓喜がかなり永い間続いた。そのゆえに私は幸福であった。ある日私はかわいい私の作物を・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫