・・・ 成程二階の亜字欄の外には、見慣ない樹木が枝を張った上に、刺繍の模様にありそうな鳥が、何羽も気軽そうに囀っている、――そんな景色を眺めながら、お蓮は懐しい金の側に、一夜中恍惚と坐っていた。………「それから一日か二日すると、お蓮――本・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・――白はただ恍惚とこの犬の姿に見入りました。「あら、白は泣いているわよ。」 お嬢さんは白を抱きしめたまま、坊ちゃんの顔を見上げました。坊ちゃんは――御覧なさい、坊ちゃんの威張っているのを!「へっ、姉さんだって泣いている癖に!」・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・ただ、妙に恍惚たる心もちの底へ、沈むともなく沈んで行くのである。それがやがて、はっと眼がさめたような気に帰ったと思うと、いつか楊の魂はあの虱の体へはいって、汗臭い寝床の上を、蠕々然として歩いている。楊は余りに事が意外なので、思わず茫然と立ち・・・ 芥川竜之介 「女体」
・・・ と炎天に夢を見る様に、恍惚と松の梢に藤の紫を思ったのが、にわかに驚く! その次なる烏賊の芸当。 鳶職というのを思うにつけ、学生のその迫った眉はたちまち暗かった。 松野謹三、渠は去年の秋、故郷の家が焼けたにより、東京の学校を中途・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ とじっと見詰めると、恍惚した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉のあたりを、ちらちらと蝶のように、紫の影が行交うと思うと、菫の薫がはっとして、やがて縋った手に力が入った。 お君の寂しく莞爾した時、寂寞とした位牌堂の中で、カタリと音・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・衣を透して、肉を揉み、筋を萎すのであるから恍惚と身うちが溶ける。ついたしなみも粗末になって、下じめも解けかかれば、帯も緩くなる。きちんとしていてさえざっとこの趣。……遊山旅籠、温泉宿などで寝衣、浴衣に、扱帯、伊達巻一つの時の様子は、ほぼ……・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・一行、一句にも心を捕えられ、恍惚として、耽読せしむるものは、即ち知己であり、その著者と向志を同じくするがためです。眼だけは、文字の上に止っても、頭で他のことを空想するように、感ずる興味の乏しいものは、その書物と読む者の間が、畢竟、無関係に置・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・童話の創作熱に魂の燃えた時に、はじめて、私の眼は、無窮に、澄んで青い空の色を瞳に映して、恍惚たることを得るのであります。 私を、現実の苦しみから救うものは、逃避でもなく、妥協でもなく、また終わりなき戦いでもなく、全く、創造の熱愛があるか・・・ 小川未明 「『小さな草と太陽』序」
・・・時に、私達は、恍惚として、それに聞きとられることがある。そして、それは、また音楽について、教養あるがために、自然の声から、神秘を聞き取るという訳ではないのだ。 たゞ、どこにでもあるであろう、いゝ音色は、同じく、無条件に、人間の魂を捕えず・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・そのときの心の状態がなんとも言えない恍惚なんです。いったいそんなことがあるものですかね。あっはっはは。どうです、今から一緒にそこへ行ってみる気はありませんか」「それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境には入って来ましたね」 そして聴・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫