・・・常子はその姿を透かして見ながら、もう一度恐る恐る繰り返した。「何か、……何か御用でございますか?」 男はやっと頭を擡げた。「常子、……」 それはたった一ことだった。しかしちょうど月光のようにこの男を、――この男の正体を見る見・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・するとその言葉が終った時、恐る恐る顔を擡げたお栄の眼には、気のせいか麻利耶観音が微笑したように見えたと云うのです。お栄は勿論小さな声をあげて、また祖母の膝に縋りつきました。が、祖母は反って満足そうに、孫娘の背をさすりながら、「さあ、もう・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・あげた手が自ら垂れ、心頭にあった憎しみが自ら消えると、彼は、子供を抱いたまま、思わず往来に跪いて、爪を剥がしているクリストの足に、恐る恐る唇をふれようとした。が、もう遅い。クリストは、兵卒たちに追い立てられて、すでに五六歩彼の戸口を離れてい・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・ 仰せを蒙った三右衛門は恐る恐る御前へ伺候した。しかし悪びれた気色などは見えない。色の浅黒い、筋肉の引き緊った、多少疳癖のあるらしい顔には決心の影さえ仄めいている。治修はまずこう尋ねた。「三右衛門、数馬はそちに闇打ちをしかけたそうじ・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・ただ胸ほどある据え風呂の中に恐る恐る立ったなり、白い三角帆を張った帆前船の処女航海をさせていたのである。そこへ客か何か来たのであろう、鶴よりも年上の女中が一人、湯気の立ちこめた硝子障子をあけると、石鹸だらけになっていた父へ旦那様何とかと声を・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・そこで、彼は、いささか、ぎょっとしながら、恐る恐る、見るような、見ないような顔をして、そっとその人間を窺って見た。 垢じみた道服を着て、鳥が巣をくいそうな頭をした、見苦しい老人である。(ははあ、乞丐瘠せた膝を、両腕で抱くようにして、その・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうに膝を進めて、行燈の火影に恐る恐る、修理の眼の中を窺った。 三 刃傷 延享四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、修理は、殿中で、何の恩怨もない。肥後国熊本の城主、細川越中守宗教を殺害・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・と、恐る恐る返事をしました。「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・ ほど経てから内儀さんが恐る恐るやって来て、夕食のしたくができたからと言って来た。食慾は不思議になくなっていたけれども、彼はしょうことなしに父の座敷へと帰って行った。そこはもうすっかりかたづけられていて、矢部を正座に、父と監督とが鼎座に・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ そこに妻もおずおずと這入って来て、恐る恐る頭を下げた。それを見ると仁右衛門は土間に向けてかっと唾を吐いた。馬はびくんとして耳をたてたが、やがて首をのばしてその香をかいだ。 帳場は妻のさし出す白湯の茶碗を受けはしたがそのまま飲まずに・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
出典:青空文庫